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もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話(最終回)のネタバレ考察&感想。八分坂に残った夢と、上演されなかった青春

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話(最終回)のネタバレ考察&感想。八分坂に残った夢と、上演されなかった青春

夢は、叶った瞬間よりも、壊れたあとに本当の重さが分かる。

「もしがく」最終回は、そのことを静かに突きつけてくる30分だった

劇団は解散し、八分坂の日常は変わり、仲間たちはそれぞれの場所へ散っていく。成功でも再起でもない、もっと中途半端で、もっと現実的な終わり方。それでも、この物語が残したものは確かにある。

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのか。その問いに対する答えが、上演されなかった稽古と、去っていく背中の中にそっと置かれた最終回だった。

目次

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話(最終回)のあらすじ&ネタバレ

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話(最終回)のあらすじ&ネタバレ

最終話(第11話)のタイトルは「思い出の八分坂」。放送は2025年12月17日で、最終回は30分拡大で描かれました

1984年の渋谷を舞台に、三谷幸喜の半自伝的要素も織り込まれた青春群像劇として走り続けてきた物語が、ここでひとつの“終幕”を迎えます。

そもそも久部三成は、ストリップ劇場で踊るリカに魅了され、WS劇場を“クベシアター”へ変えようと動き出した青年でした。

仲間を集め、シェイクスピアにこだわり、何度も失敗しながら前に進んできた。その歩みがあったからこそ、最終話は成功のご褒美で終わると思わせておいて、その先の現実まで描き切ります。

ここから先は本編の詳しいネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

オープニング|王様になった久部と「運気が下がる」という予兆

WS劇場を見渡す久部の表情は、確かに“手に入れた人”の顔でした。

支配人の大門とフレを追い出し、劇場を奪い取り、シェイクスピアを上演する場所を守り抜いた。リカとの関係も良好で、周囲から見れば「やっと報われた」ように映ります。

しかし、無料案内所のおばばだけは違う景色を見ていました。久部にもらった植木が枯れている。

あの植木は、久部が八分坂で築いてきた人間関係の象徴のような存在です。それが枯れる。おばばが静かに「運気が下がっておるぞ」と告げた瞬間、最終話は“ハッピーエンドの余韻”を断ち切り、破滅へ向かうレールをはっきりと敷き始めます

『冬物語』から『ハムレット』へ|舞台は熱いのに、楽屋は冷えていく

WS劇場の演目は『冬物語』から『ハムレット』へ。久部は主役ハムレットとして舞台に立ちます。理想のシェイクスピア劇、夢の実現。そのはずでした。

ところが、観客の視線が集まる先は、必ずしも久部ではありません。客席の心を強く掴んでいくのは、大瀬六郎が演じるレアティーズ。取材は大瀬に集中し、アンケートでも大瀬への言及が続く。舞台としては成功しているのに、その成功が久部を誇らせるのではなく、じわじわと削っていく。

客席は一つの成功を祝っているのに、楽屋では「誰が中心か」をめぐって空気が冷え始める。最終回は、この温度差が終始、胸に刺さる展開です。

大瀬人気と是尾の苛立ち|「評価されない側」が一気に増える

大瀬は人気者になります。本人は純粋に舞台を楽しみ、評価されることにも素直に喜んでいる。だからこそ、周囲の感情はより複雑になります。

是尾礼三郎は、大瀬ばかりが注目される状況を快く思いません。自分は日本を代表するシェイクスピア俳優であり、久部からも一目置かれてきた存在。その自負があるからこそ、スポットライトが別の方向へ流れることに耐えられない。

一方で、大瀬の“順風”にも小さな影が差し込みます。

モネとのデートを期待するような素直さを見せる大瀬に対し、モネは息子・朝雄との約束を優先する。ここで大瀬が少し傷つくことで、彼は単なる勝ち組ではなく、きちんと揺れる人間として描かれます。

久部の焦り|主役なのに主役になれない、という地味な地獄

久部の焦りは、露骨には表現されません。口では「いい芝居だった」「次もいける」と言い、大瀬にも先輩らしく声をかける。でも、その声色はどこか強く、目は笑っていない。

主役なのに主役になれない。その地味で逃げ場のない地獄が、少しずつ久部の内側を腐らせていきます。しかも久部は役者であると同時に演出家でもある。役者としても、演出家としても、中心でありたい。その欲求に大瀬の人気が突き刺さる。

最終回の久部は、外敵と戦っているのではなく、自分自身の承認欲求と戦い、確実に負けていく姿に見えます。

リカはオフィーリアで迷子になる|久部のフォローが届かない理由

楽屋では、リカがオフィーリア役として自信を失っています。

久部は恋人としても演出家としても、必死に稽古をつけ、支えようとする。それでもリカは、その手を受け取れない。ふいに楽屋を出ていってしまいます。

ここは単純に「役が難しいから」ではありません。久部が期待すればするほど、リカは自分の弱さを突きつけられる。久部が寄り添うほど、「この人の夢の中に閉じ込められる」という感覚が強まってしまう。

久部の善意が、リカの自由を奪いかねない距離感。その歪みが、最終回で一気に表に出ます。

朝雄の絵が壊される|楽屋の中で起きた“取り返しのつかない事故”

最終回の決定的な亀裂は、事件ではなく事故として起こります。久部が、朝雄の描いていた絵に勝手に絵の具を重ねてしまう。結果は散々で、拭き取ろうとして取り返しのつかない状態してしまいます。

朝雄は激怒し、周囲では「誰がやったのか」という犯人探しが始まる。ここで久部は名乗り出られない。謝れない。自分の失敗を、自分の言葉で引き受けられない

だから久部は、“犯人探し”という場に紛れ込み、空気の外側へ逃げ込もうとする。

しかも最悪なことに、大瀬に罪をなすりつけようとする。モネは激怒し、樹里も久部の変化をはっきりと悟る。信頼が崩れる音が、見えないところで確実に鳴ります。

久部が大瀬に説教する皮肉|「自分を見失うな」を言う側が一番見失っている

久部は大瀬に「自分を見失うな」と説教します。言葉だけを見れば正論です。しかしこの場面では、刺さり方が完全に逆です。

見失っているのは久部自身。自分の失敗を認められず、人気者を妬み、正しさを盾に支配しようとする。その歪みが、説教の言葉を空虚なものにします。

大瀬は久部の言葉を真面目に受け取ろうとするからこそ、余計につらい。反抗してくれた方がまだ救いがあるのに、大瀬はただ戸惑ってしまう。だからこそ、久部の罪がより重く描かれます。

是尾が再び酒へ|黒崎の策略が刺さるのは、久部が弱っているから

樹里が「昔の方が、みんな楽しそうだった」と漏らす頃、是尾は再び酒に手を出します久部は「二度と飲まない」という約束を破った是尾に冷たい態度を取り、場はさらに荒れていきます。

そこで明かされるのが、外敵・黒崎の存在です。

久部が以前いた劇団「天上天下」の主宰者・黒崎が、是尾を飲みに誘い出し、客入りの悪い久部側を潰すために仕掛けていた。

ただし、黒崎の策略が“刺さる”のは、久部が弱っているからです。外圧が原因のようで、実は内部の脆さが原因。最終回はそこを徹底して描きます。

蓬莱の進言|「リカの役を替えろ」は冷酷ではなく、劇団を守る最後の手段

蓬莱は久部に、リカの役を替えるべきだと進言します。「久部のお気に入りなのは分かっている」と釘を刺した上で、それでも替えろと言う。

蓬莱は冷たいのではありません。劇団の崩壊を止めるために、あえて冷徹な言葉を選んでいる。でも久部は受け止められない。受け止めた瞬間、自分の愛が正しくなかったと認めることになるからです

蓬莱の言葉が届かないことで、劇団はさらに危険な道へ進んでいきます。

50万円超の酒代|久部が劇場の金に手を出す、そして口止めに失敗する

夜公演は幕を閉じますが、終演後、是尾が開けた酒の代金が50万円以上に達していることが発覚します。久部はその穴を埋めるため、劇場の金に手を出そうとする

芝居のための場所を守ったはずの人が、芝居の場所を壊す行為に踏み込む。

ここで久部は完全に一線を越えました。

久部はモギリの毛利里奈に1万円を渡して口止めを図りますが、里奈はすぐ蓬莱に報告します。口止めが効かないのは当然で、久部の支配がすでに効かなくなっている証拠。

王様になった久部は、王国の内側から孤立していきます。

横領追及の場面|嘘がバレる速度の速さが、逆に恐い

劇団員が集まる場で、久部は金の持ち出しを追及されます。ここで正直に話せば、まだ修復の余地はあったかもしれない。でも久部は言えない。

苦し紛れに「いざなぎダンカンが困っているから金を貸した」と嘘をつく。しかし、その嘘が崩れるのはあまりにも早い。久部が劇場に戻ると、ダンカン本人が現れる。

コメディのような間合いで嘘が潰れるのに、笑えない。久部が積み重ねてきた誤魔化しが、最後に一気にひっくり返る感覚があります。

久部の決裂宣言|「信じないならついてくるな」が、解散への引き金

追い詰められた久部が口にしたのは、謝罪ではなく、「信じられないなら自分の下にいるな」という突き放しの言葉でした。

久部は信頼を回復する努力を捨て、信じない側を切り捨てる。これは演出家として最悪の判断です。演劇は、信頼関係でしか成立しないから。

ここで劇団は決定的にバラバラになります。久部が守りたかったはずの“場所”は、久部自身の言葉で壊れていく。最終回が苦しいのは、崩壊がすべて久部の口から始まってしまうからです。

仮面劇の稽古|久部は“人”じゃなく“役”だけを見てしまう

それでも久部は芝居を止めません。風呂須太郎の助言を受け、残った少人数で仮面劇をやろうとする。久部、リカ、樹里で『ハムレット』を稽古する場面は、非常に痛烈です。

久部はオフィーリアの演技を褒めますが、それが樹里だと気づかない。仮面をつけているからではなく、久部が“役”しか見ていないから気づけない。

人間関係を壊した後も、芝居だけは続けようとする。

その姿が、最終回で最も怖い瞬間かもしれません。芝居が救いであるはずなのに、芝居が久部の視野を狭めてしまっている。ここに、このドラマの残酷なリアリティがあります。

リカの決断|「久部には夢を叶えてもらえない」は、恋人への否定ではなく現実の選択

リカは劇場オーナーのジェシーに芸能関係者の紹介を頼み、久部には自分の夢を叶えてもらえないと告げます。ここでリカが語っているのは、恋ではなく“生存”です。

八分坂で落ち、そこから這い上がってきた人生。だからリカは、久部の夢に乗るのではなく、自分の夢を選ぶ。そして「這い上がる」と宣言して去っていく。

久部に向けた否定ではなく、現実に対する宣戦布告。演劇で救いたかったリカは、演劇ではなく、現実の手段で未来を取りに行きました。最終回の中でも、最も強い前進だったと思います。

樹里の別れと予言の回収|「おとこから生まれた男」は蓬莱だった

樹里は久部に、「自分のためにだけ芝居を作っている人には、誰もついて行かない」と突きつけ、父の転勤で八分坂を離れると告げます。

そして、蓬莱の母の名前が「おとこ」だと明かす。ここで久部は、おばばが語っていた「おとこから生まれた男」の正体が、蓬莱だったことに気づきます。

予言は、久部を王様にして終わりではなかった。王様になった久部が、王様で居続けられない未来まで含んでいた。久部は劇団を解散させ、八分坂を去ります。成功物語のようで、実は転落の物語だったことが、ここで確定します。

2年後の八分坂|それぞれの現在と、置き去りにされた久部

2年後。蓬莱は放送作家になり、仕事の合間に八分坂を訪れます

WS劇場は様変わりし、劇団は解散。無料案内所のおばばはクレープ店の店主となり、彗星フォルモンは王子はるおとコンビを組んで芸人として活動。リカはテレビのタレントとなり、ジェシーは「スッカスカ弁当」の店主になっていました

そして久部は、その弁当屋の従業員として自転車で配達をしている。かつて“劇場の王様”だった男が、八分坂の地面を走る。その落差はあまりに大きいのに、どこか生々しく、笑えないほどリアルです。

上演しない『夏の夜の夢』|みんなの“楽屋”だけが残った

配達先の交流センターの部屋から、懐かしい声が聞こえてくる。トニー安藤、うる爺らが集まり、『夏の夜の夢』の稽古を続けているのです。上演の予定はない。それでも稽古をする

樹里が蓬莱に「顔出します? 皆さん喜ぶと思いますよ」と声をかけた、その瞬間、久部の姿はもうありません。

その部屋には観客はいないし、上演の予定もない。それでも台詞が転がり、誰かの間違いに笑いが起きる。舞台に立つ前の“前室”として、稽古だけが残っているような感覚がありました。

久部が求めた完璧な舞台とは別の形で、演劇は生き残っていく。その余韻が、最後の自転車の背中に重なります。

青空の下、久部は自転車をこいで去っていく。

最後に響く「この世はすべて舞台。男も女も役者に過ぎぬ。ノーシェイクスピア、ノーライフ!」という言葉が、ビターでありながら温かい余韻を残して、物語は幕を閉じました。

個人的には、あの青空が一番残酷で、一番優しかった。しばらく余韻が抜けません。

久部が最後に選んだのは「謝罪」ではなく「上演」|解散の決断に至るまで

嘘が露見し、金の持ち出しが問題となり、劇団が崩壊していく中で、久部が最後にすがったのは“説明”でも“謝罪”でもなく、芝居そのものでした。


風呂須太郎の言葉を借りて、少人数の仮面劇へ切り替える。久部、リカ、樹里で稽古を続ける。その姿には、芝居に救われてきた男の強さと、芝居に囚われていく弱さが、同時に詰まっています。

その稽古で久部が褒めたオフィーリアは、実は樹里でした。久部が気づけなかったのは、仮面のせいではなく、久部の視線が“役”に偏りすぎていたからだと思います。

人を見ていない。関係を見ていない。芝居だけを見ている。だからこそ、リカの決断も、樹里の決断も、久部の視界からすり抜けてしまう。

そして決定打となるのが、予言の回収です。蓬莱の母の名前が「おとこ」だと知った瞬間、久部は「おとこから生まれた男」の正体が蓬莱だったことを理解し、劇団を終わらせる決断を下します

ここで久部は“王様”から“独り”へと落ちていく。最終回のタイトルが「思い出の八分坂」なのは、この場所が久部にとって、栄光だけでなく、痛みごと刻まれた場所になったからだと感じました。

2年後の蓬莱の視線|変わった街と、変われなかった痛みを見届ける役

2年後の八分坂で、蓬莱が担っている役割は、事件を解決することでも、誰かを救うことでもありません。ただ“変化”を見届ける役です。

WS劇場は様変わりし、案内所はクレープ店になり、仲間たちはそれぞれの生活へ散っている。あの頃の熱量だけが、街の外側に置き去りにされているように見える。

蓬莱の視線を通してそれを確認させることで、最終回は「終わったんだな」という実感を、ゆっくりと染み込ませてきます。

それでも、完全に終わったわけではない。塚本屋に戻ってきたシェイクスピア全集もそうだし、交流センターで稽古が続いていることもそうです。

久部だけがいないのに、久部が作った時間の名残だけは残っている。だからこそ切なく、だからこそ“この先”を想像してしまうラストでした。

あの青空は、やはり一番残酷で、一番優しかった。
しばらく余韻が抜けません。

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話の感想&考察

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)11話の感想&考察

最終回の後味は、爽快というよりも苦いものでした。

劇団が解散したという事実だけを見れば、“負け”に見える結末です。でも僕は、あの苦さは狙って作られた「青春の終わり方」だったと思います。

1984年の渋谷で、まだ何者でもない若者たちが夢を見て、夢に食われて、それでも生きていく。その群像劇の着地点として、むしろ誠実だったと感じました。

最終回が刺さるのは「外敵に負けた」じゃなく「自分に負けた」から

黒崎の妨害、つまり是尾を酒に誘うという外圧は確かに存在しました。

けれど、劇団を終わらせた決定打は、あくまで久部自身の選択です。

  • 朝雄の絵を壊したこと。
  • それを隠したこと。
  • 罪をなすりつけたこと。
  • 劇場の金に手を出したこと。
  • 嘘を重ねたこと。
  • 最後に仲間を切り捨てたこと。

すべて久部の行動です。
最終回は「敵に負けた話」ではなく、「自分の弱さに負けた話」だった。だからこそ苦いし、だからこそ忘れにくい結末になりました。

久部の“罪”は横領より先に始まっていた

謝れない人間は、最後に金で破滅する

表面的な決定打は横領です。でも僕は、久部はもっと前から詰んでいたと思います。

朝雄の絵を壊してしまった時点で、「ごめん」と言えていたら、劇団はまだ踏みとどまれた。
大瀬に罪をなすりつけようとした瞬間に、自分の弱さを認めていたら、仲間は戻れたかもしれない。

でも久部は謝れない。

謝った瞬間に、“理想の演出家像”が崩れてしまうからです。だから小さな嘘を重ね、その嘘が積もり、最後に金へと手を伸ばす。

最終回は、横領を「悪事の始まり」ではなく、「悪事の着地」として描いていた。そこがとても冷静で、容赦がありませんでした。

『ハムレット』が残酷な鏡

主役なのに主役になれない地獄が人を壊す

最終話の演目が『ハムレット』で、主役が久部であるにもかかわらず、観客の熱は大瀬(レアティーズ)に集まる。この構図が、あまりにも残酷で、そして美しかった。

久部は舞台の中心に立っているのに、客席の中心にはいない。そのズレが、久部の嫉妬を増幅させ、判断を狂わせていく。

ここを「久部は器が小さい」と切り捨てたくはありません。

演劇の世界では、評価の偏りは努力や才能と無関係に起きる。だからこそ苦しい。久部は、それを受け止める器を持てなかった。

ハムレットが自分自身の内面の混乱によって破滅するように、久部もまた“自分の脚本”に殺されていった。そう見えました。

リカと樹里が去った意味

久部の物語から降りたことで、物語が正しくなった

リカの決断は、恋愛的には痛いものです。でも、久部が与えられるのは「役」であって、「人生」ではない。リカは自分の夢のために、現実のルートを選びました。

樹里も、「自分のためにだけ芝居を作っている人には、誰もついて行かない」と言い切り、去っていく。

もしこの2人が久部のもとに残っていたら、久部の独裁や横領は“愛ゆえの過ち”として回収されてしまったかもしれない。
そうではなく、あの過ちは過ちのまま残さなければならなかった。だから去る。あれは裏切りではなく、物語の倫理だったと思います。


八分坂という名前が象徴するもの

10割じゃない場所で、10割の夢を見た

これは考察ですが、「八分坂」という地名自体が象徴的です。
8割=未完成。完璧ではない場所。

その場所で、久部たちは10割の夢を見た。だから摩擦が生まれ、衝突し、折れてしまった。

最終回で久部が八分坂を去るのは、「未完成な場所に居続けられなかった」という意味でもあり、「未完成を抱えて生きるしかない」と突きつけられた瞬間でもある。僕は後者だと思います。

タイトルの答えは「上演しない稽古」

楽屋は場所じゃなく、関係性だった

最終回で一番好きな場面は、上演の予定がないのに『夏の夜の夢』の稽古を続けていたところです。あの部屋こそが、みんなの“楽屋”だった。

舞台に立つ前の一瞬、素の自分と役の自分が混ざる時間。そこには勝ちも負けもありません。

久部は劇団を壊した。でも、久部が教えた「芝居で遊ぶ方法」や「仲間と稽古する楽しさ」は残った。だから稽古が続いている。

この残り方が、とても優しい。ビターエンドなのに、ちゃんと救いがあるのはここだと思います。

2年後の久部に残った余白

シェイクスピア全集が戻ったのは「再起」のサインか

弁当配達をする久部は、ひとまず敗者です。

でも、手放したはずのシェイクスピア全集が塚本屋に戻っていた

これは僕の解釈ですが、久部がもう一度芝居を始める可能性を示す“小道具の伏線”に見えました。

舞台に戻るかどうかよりも、あの痛みを抱えたまま“次の役”を生きられるか。それが、この物語の続きだと思います。

人生の舞台は終わらないし、役者は降板できない。久部が次にどんな役を生きるのか。最終回は、その想像を視聴者に委ねました。

おばばのクレープ店が示す“生存”のリアル

夢を諦めるんじゃなく、形を変える

2年後、おばばは無料案内所ではなく、クレープ店の店主になっていました。派手な伏線回収ではありませんが、物語のテーマを静かに支える描写です。

夢を諦めたのではなく、生活の中で形を変えた。だから彼女は笑っている。

久部が“理想の舞台”に固執して折れたのと対照的で、青春の終わりとは、「夢が終わること」ではなく、「夢の置き場所が変わること」なのかもしれない。そんなことを考えさせられるラストでした。

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