「この世界はすべて“舞台”なのかもしれない」――そんな不思議な問いを軸に、ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(もしがく)は始まります。
1980年代の渋谷・八分坂を舞台に、落ちこぼれの演出家・久部三成(菅田将暉)が、行き場を失った芸人や踊り子、そして謎めいたミューズ・倖田リカ(二階堂ふみ)と出会う。彼らの“人生”と“芝居”が交錯する場所――それが、現実と虚構の境界にある劇場〈WS〉です。
一人の男が照明のスイッチを押すたびに、人生の幕が上がる。
この記事では、全話のあらすじを時系列で振り返りながら、登場人物たちが見つけた“楽屋=心の居場所”を徹底解説します。
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)は原作ある?

テレビドラマとしての『もしがく』は“脚本・三谷幸喜による完全オリジナル連ドラ”です。
フジテレビ公式のイントロダクションに明記されており、舞台は1984年の渋谷。そして三谷自身の経験に基づくオリジナルストーリーだとされています。つまり、既刊の小説や漫画の実写化ではありません。
「原作短編『劇場ものがたり』」との関係は?
一方で、放送開始と同時にFODが短編小説『劇場ものがたり』を“原作小説”“原点”として無料配信しています。
ここでいう「原作」はドラマの主題歌制作と世界観をつなぐ“母体テキスト”の位置付けであり、ドラマの物語そのものの直訳・ノベライズではありません。公式記事でも「ドラマは三谷の半自伝的要素を含む完全オリジナルストーリー」とした上で、この短編をドラマと主題歌をつなぐ原点として紹介しています。
主題歌YOASOBI「劇上」との“原作”関係
主題歌YOASOBI「劇上」は、三谷が同曲のために書き下ろした短編『劇場ものがたり』をもとに制作されたと複数の音楽メディア・公式プレスが伝えています。
つまり“小説を音楽にするユニット”であるYOASOBIの制作文脈における「原作」がこの短編で、ドラマはオリジナル、主題歌は短編が原作という二層構造です。さらにMVはYOASOBI本人の実写出演に加え、菅田将暉・二階堂ふみも登場予定とされ、ドラマ⇄短編⇄主題歌の連動が明確に示されています。
公式が語る“物語の土台”
作品世界の土台については、三谷の青春期の体験(渋谷のストリップ劇場でのバイト経験など)が物語の出発点だと、公式インタビューで明言されています。したがって「どの既存小説を映像化したのか?」ではなく、「三谷の実体験+オリジナル脚本に、短編と主題歌が呼応する設計」と整理するのが正確です。
【全話ネタバレ】もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)のあらすじ&ネタバレ

八分坂の街で、夢と現実が交錯する――。
ここではドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)』の全話あらすじとネタバレを時系列で解説します。
1話:ここは八分坂
第1話は「どうなろうとも、時は過ぎる」というシェイクスピアの題辞で幕開け。時代は昭和59年・秋。
蜷川幸雄に憧れる演出家の卵・久部三成(菅田将暉)は、自ら立ち上げた劇団「天上天下」で役者たちと衝突し、“横暴”ゆえに追放される。演目『クベ版 夏の夜の夢』は不評、観客はわずか5人――久部は怒号で「面白さに価値を見いだすな」とまくし立て、夜の渋谷をさまよい出す。
あてもなく流れ着いたのが、ストリップのネオンが瞬く八分坂。「渋谷駅から8分で着く」ことが名の由来で、アーケードには英語で“Pray speak what has happened(何があったか話してごらん)”と刻まれている。無料案内所のおばば(菊地凛子)に誘われ、久部はWS劇場の扉を押す。
久部は『テンペスト』で制作スタッフのトンちゃん(富田望生)に愚痴をこぼし、マスターの小林薫に出禁を食らう。路頭に迷い、八分神社で引いたおみくじはまさかの白紙。巫女の樹里(浜辺美波)は「吉凶は自分次第」とクールに返す。久部の傲慢さを映すように、周囲の空気は冷ややかだ。
一方、WS劇場の楽屋ではダンカンが浮かない顔をしていた。風営法改正の逆風で観客は減り、彼女は照明担当のノーさんとともに沖縄へ逃避を決意。残されたベテランのパトラは、疲れを押して代役として立つ。劇場オーナーのジェシーはロールスロイスで乗りつけ、支配人に「ノーパンしゃぶしゃぶに改装しよう」と迫るほど、経営は崖っぷちの状況にある。
久部は案内所のおばばに導かれ、スナック「ペログリーズ」で倖田リカ(二階堂ふみ)と出会う。リカはミステリアスに三島由紀夫を読み、久部の話を優しく受け止める。…が、会計は9万3600円。逃げ出す久部を用心棒のトニー安藤(市原隼人)が追い詰めるが、リカは「シェイクスピア全集」を質草にして翌晩までの猶予を与える。久部が命よりも大切に抱える“バイブル”が、ここで宙に浮く。
同時刻、モネの息子・朝雄が行方不明に。久部は交番の大瀬六郎(戸塚純貴)とともに八分神社で朝雄を保護し、母子の騒動はひとまず収束する。しかし、警察に頼れぬと悟った久部はペログリーズに忍び込み、“バイブル”奪還を図る――ここからドラマは“出会い”のクライマックスへとなだれ込む。
ちょうどその頃、WS劇場ではダンカン離脱によりピンスポットが無人に。リカが急遽ステージに立つが、固定ライトでは魅力が光から外れてしまう。その瞬間、客席奥で“バイブル”を抱え直した久部の耳に流れ込むのは――『天国と地獄』(オッフェンバック)。久部は衝動のまま照明ブースへ駆け上がり、リカの動きに合わせてピンスポットを完璧に追う。舞台とミューズが初めて“噛み合う”瞬間に、リカは蠱惑的な笑みを向け、久部の目に再び炎が宿る。
――ここが第1話最大の快感点だ。なぜ『天国と地獄』なのか。この選曲は、久部が辿る“オッフェンバックの道”を暗示している。劇場経営の赤字に苦しみながらも新しい形式を切り開いた“オペレッタの父”に、これからの久部の航路を重ねた示唆だ。創作者に必要なのは、言葉より先に火を点ける“ミューズ”。第1話は「自分だけのミューズと出会う物語」として、久部とリカの光を見事に結線した。

2話予想:久部は“照明”からWSに入る――ミューズは創作を動かすか
第2話の公式あらすじはすでに明かされている。WS支配人の浅野大門が久部に声をかけ、パトラのショーのピンスポット担当に任命。久部は楽屋でリカと再会するが、彼女の態度はそっけない――ここまでが事実ベースの予告ラインだ。
ここからは第1話の布石を論理で積み直した“展開予想”。
予想①:「横暴な理想」は“現場の労働”で溶ける
久部は第1話で自他に厳しい理想を掲げ、劇団を壊した。第2話では照明=労働を引き受け、“誰かの表現を支える側”に回る。こうして役割が反転することで、久部の臆病さと誠実さが露出し、リカへのまなざしが“所有”から“尊重”へと変化する。これは三谷脚本が好む“立場のズレ”を使った矯正線である。
予想②:リカは“恋の正体”ではなく“創作の核”
第1話はミューズの贈与で終わったが、恋愛の即着火は避けられるだろう。リカの冷たさは、久部の“口のうまさ”に対する免疫であり、WSという生活の現実でもある。距離を保つからこそ、久部の“創作が先、恋は後”になる。音楽『天国と地獄』が示す劇場経営の苦さ(=オッフェンバック)を踏まえれば、彼がまず救うべきは“舞台”である。
予想③:WS経営危機のカウントダウンが加速
ジェシー才賀の業態転換案(ノーパンしゃぶしゃぶ)という“時代の俗”は、芸の矜持と正面衝突する。ダンカンの沖縄行きで空いた穴(照明・演者・看板)をどう埋めるか。大門の土下座まで出る経営の切迫は、久部の実務力(現場オペと段取り)を試す。こうして危機を可視化することで、彼の居場所(=“楽屋”)が生まれる。
予想④:八分坂は“語り”を蓄積する場として機能
アーケードの題辞“Pray speak what has happened”は、「語れ」という命令形だ。第2話以降、テンペスト/ペログリーズ/神社に“語り”が集まり、蓬莱省吾(神木隆之介)が言葉の編集で空気を変える。こうして“語り→笑い→場が客を呼ぶ”という街の循環が回り始める。
予想⑤:形式面の継続――エピグラフ×主題歌
渡辺謙のエピグラフが第2話でも章の鍵を暗示し、YOASOBI「劇上」が“舞台=人生”の反復句として響く。音・声・セットが毎回の小さな“初日”を作るのが本作の快楽構造だ。第2話は15分拡大回で、“現場で働く久部”の姿をじっくり描く余白が確保されている。

3話以降〜
※放送後に更新します。
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)の結末予想

ここからは第1話時点の情報に基づく予想です。論理は「提示された課題→主人公の資質→作品のモチーフ」から積み上げます。
最終到達点は「WS劇場の再生」——“見世物”と“演劇”の融和点を探す物語
第1話でWS劇場には経営危機(オーナーが“ノーパンしゃぶしゃぶ”への転用を示唆)という外的圧力が置かれました。これは「芸の矜持」VS「時代の消費」という軸を明確化するための装置です。久部(三成)は照明ピンスポットを即興で操り、リカの踊りを“演出”によって立ち上げた。だからこう考えるのが自然です——“見世物”の場に“演劇の文法”を持ち込み、場の価値を再定義できるのは久部の仕事だと。
第2話の公式予告でも久部がピンスポット担当としてWSで働き始めると明かされており、現場に居続ける→学習と関係構築→再生の核を掴むという段取りが見えます。最終盤は、WS劇場を“舞台”へ引き上げる一夜限りのショーや新企画で一気に観客の記憶に刻み、業態転換の圧力を跳ね返す。その目印が第1話の“劇場での邂逅”だったと読むのが妥当です。
久部の人物弧:「ハムレット」→「リチャード三世」→「マクベス」
公式取材で三谷は、主人公の変化をシェイクスピアの三作品で喩えています。
優柔不断で自意識の怪物(ハムレット)から、野心の加速(リチャード三世)を経て、罪と責め苦(マクベス)へ。だからこうなる——久部は芸を守るために“正しい嘘”をつき、誰かを踏み台にし、その代償と向き合う。
最終話は“マクベス的”な闇堕ちで終わるのではなく、“演劇的贖罪”=舞台の上で真実と嘘を引き受ける選択に着地するはず。世界は舞台、人は役者というテーマを、劇中劇(ショー)の成功と倫理的な清算で二重に回収すると見ます。
リカは“ミューズ”であり“相棒”。恋愛一点突破ではなく“共同創作”の線
第1話ラスト、久部の光に反応して踊りを変えるリカのカットは、二人が創作の相棒であることの宣言でした。だからこう予想します——二人は恋より先に“作品”で結ばれる。危機のショーでリカが主演演者・共同振付として立ち、久部は演出(照明・構成・脚本)で支える。ミューズ×演出家の関係が「依存」から「対等」へ移行したとき、初めて恋が輪郭を持つでしょう。
余談ですが、第1話の邂逅曲にオッフェンバック『天国と地獄』が置かれていたのは示唆的です。見世物小屋から劇場経営に挑んだ音楽家の逸話をなぞる配置で、“ショーで劇場を救う”という最終課題を曲そのものが暗示しています。
“語り手”蓬莱(神木)の役割——記録係から“外へ開く仕掛け人”へ
新人放送作家の蓬莱は、八分坂の内輪の笑いを外のメディアに翻訳できる唯一の存在。コメディコンビの素材を拾い、WS劇場のショーを“番組企画”に繋ぐブリッジになるはずです。ラストに向けては、劇場の一夜をテレビ(あるいはラジオ)で外の世界に届ける導線を作る役回り——これが群像の“外への出口”になるでしょう。
「楽屋」はどこか——“八分坂=社会の裏側”から“心の退避所”へ
タイトルの問いに対する劇中解は段階的に更新されるはずです。
第1段階:八分坂そのものが“社会の楽屋”。看板の「Pray speak what has happened.」は、ここに来れば本音を語っていいという通行手形。
第2段階:WS劇場の楽屋——舞台と現実が混ざる“中間地帯”。第1話はここで久部が“演出家の自意識”を一度剥がされる回でした。
最終段階:人間関係そのものが“楽屋”。誰かと本音で繋がれる場所=心の退避所を得られるかが、久部の勝負になる。
象徴アイテム・装置の回収
“白紙”のおみくじ(樹里の神社):能動的に意味を与えよという指示。久部は舞台装置(照明・構成)で“意味を書き込む”人物。最終回で白紙に新しい言葉(台詞・題辞)が刻まれる演出が似合います。
“エピグラフ”の声(渡辺謙):各話頭のシェイクスピア引用は劇の章立て。ラストは引用に対して久部が自分の台詞で返す構図(“引用から自作へ”)。声の特別感は終幕の「幕引きの言葉」に効く。
最終回イメージ(私案)
初回拡大で提示された巨大オープンセット(八分坂)は、“街そのものを舞台化する”総決算に使われるはずです。WS劇場を核に、八分坂の店々が“連動ショー”を行う一夜——ショー×パレード×中継の複合イベント。内輪の寄せ集めが**外へ開く“お祭り”**に変わったとき、オーナーは“転用”を撤回し、八分坂は“居場所=楽屋”として生き延びる。だからこう着地すると物語のテーマと装置が綺麗に噛み合います。
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