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もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話のネタバレ考察&感想。“初日”が照らす「限度」と「希望」

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話のネタバレ考察&感想。“初日”が照らす「限度」と「希望」

前話で久部が“舞台を生かす覚悟”を取り戻した『もしがく』。

第5話では、クベ版『夏の夜の夢』がついに初日を迎える。

八分坂の劇場に集まったカンパニーは、旗揚げ宣言とともに高揚の渦に包まれるが、その裏では予期せぬトラブルが次々と発生。肉離れ、上がり症、段取りの崩壊——混乱の中で幕は上がり、笑いと緊張が交錯する一夜となった。

“ショウ・マスト・ゴー・オン”の言葉通り、彼らは舞台をやり切れるのか。そして、初日の先に見えた“楽屋”の意味とは——。

目次

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話のあらすじ&ネタバレ

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話のあらすじ&ネタバレ

1984年の渋谷・八分坂を舞台に、“三谷幸喜の半自伝的要素”を芯に据えた群像劇『もしがく』。

第5話は、ついにクベ版『夏の夜の夢』が初日を迎える一日を描く

物語としてはシンプルだが、劇中の「舞台は生き物だ」という哲学が、現場のドタバタとともに具体化していく回だった。「若者たちの夢、くすぶり、恋」を、現場の汗と息づかいで押し切る——そんな熱の立ち上がりが明確になった節目である。

開幕前:旗揚げ宣言とお祓い、そして高鳴る胸の鼓動

朝、WS劇場の関係者ミーティング。

舞台監督・伴工作(野間口徹)が一日の流れを的確に段取りし、緊張と高揚が同時に回り始める。そこで久部三成(菅田将暉)が高らかに「劇団クベシアター、旗揚げです」と宣言。

場内は歓声に包まれ、“初日”らしい空気が満ちる。お祓いのために八分神社の神主・江頭論平(坂東彌十郎)と巫女の樹里(浜辺美波)が来場。論平が倖田リカ(二階堂ふみ)にデレデレし、樹里がそんな父にうんざりする——という、人間くさいコメディの温度も健在だ。

取材の“目”が入る:タブロイド記者と「ダンサーの写真」問題

初日取材にタブロイド紙の記者(宮澤エマ)がやって来る。

80年代風味のルックで鼻息荒く旗揚げを追いかけるこの外部の“目”は、WS劇場の浮き足立ちと、久部の功名心を映し出す装置でもある。

さらに取材の流れで「ダンサーと写真を撮りたい」という要望が発生し、久部がリカを呼ぶはずが、なぜかパトラ鈴木(アンミカ)が現れる小さな食い違いも発火点に。舞台の外(=楽屋的領域)に報道の視線が差し込むことで、内と外の温度差が際立っていく。

開演直前:トラブルのジェットコースター

お祓いが終わっても安寧は訪れない。

パトラ鈴木にまさかの“肉離れ”が発生し、演出・段取りの再構築を余儀なくされる。

さらに、ベテラン“うる爺”(井上順)が本番を前に「無理だ」と急に上がり症を訴え、カンパニー全体が浮足立つ。

久部は荒療治で火消しに回るが、トラブルは雪だるま式に膨張。そのまま、やや不穏さを孕んだまま幕が上がる。次々と巻き起こる思わぬ事態が重なり、ハラハラと笑いが同居する三谷流“舞台あるある”が濃密に畳みかけてくる

初日公演:笑いは起きる、だが「限度がある」

開いた幕は閉じる。

しかし、その道のりは平坦ではない。終演後、久部は「素人を集めてシェイクスピアなんて、無理な話だった」と肩を落とす。

作品としての緩急はあれど、舞台監督の采配も、役者たちの奮闘も、客席の熱も、すべてが“一回性”の生配信。久部は「自由にやるのはいい、端から王道を目指してはいない。

だけど——“限度”がある。あれでは悪ふざけだ」と、自分の演出プランと実際の舞台の乖離に呆然とする緊張で真っ白になった“うる爺”が本番中に「郡上おどり」を延々踊ってしまった顛末まで明らかになり、久部の絶望は決定的になる。

「ショウ・マスト・ゴー・オン」の現場的リアリズム

それでも幕は開き、そして閉じた。

ゲネの段階から貫かれてきた「ショウ・マスト・ゴー・オン(幕が上がった以上、やり切る)」という姿勢は、この初日でも変わらない。

第4話の“覚醒”が寄せ集めの面々が役者へと変わる瞬間を描いていたが、初日の現場はさらに苛酷だ。演出家の手を離れ、舞台は“役者のもの”になる。その結果、笑いと事故の境目で走り続けた初日が生まれた——という観点は、第5話の見どころの一つだ。

終演後:客席に残った“老人”——伝説のシェイクスピア俳優

肩を落とす久部の前に、客席に残っていた風采の上がらない老人が現れる。

彼は日本を代表するシェイクスピア俳優・是尾礼三郎(浅野和之)。久部が敬愛する蜷川幸雄作品の常連でもあるという人物で、久部は絶句。つまり“初日”は、ただの敗戦ではなかった。

惨敗の夜にこそ現れた“次の扉”——是尾との邂逅が、WS劇場と久部の運命を揺り動かし始める。

付記:第5話の構図と登場人物の動き

第5話は、①旗揚げ宣言とお祓い(内輪の熱の高まり)→②取材=外部の視線(自意識の揺れ)→③アクシデント連鎖(現場対応力の限界)→④初日の着地(演出と現実のズレ)→⑤伝説の俳優との邂逅(次章への跳躍)という五段構成。群像の動線が一本の“舞台運営”に束ねられる巧さが際立っていた。

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話の見終わった後の感想&考察

もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)5話の見終わった後の感想&考察。

第5話は、物語が“覚醒”した回だと筆者は考える。理由は三つ。「テンポ」「視線」「着地」の最適化が、ようやく三位一体で回り始めたからだ。

テンポ:遅速の“振れ幅”がドラマを生む

序盤の段取りとお祓いは、あえて日常的なリズムで刻む。

そこから肉離れ→上がり症→開幕という“事故の羅列”にギアを入れ、終演後は一転して“敗戦の静けさ”に落とす。この「日常→非常→反省」という三層の振れ幅が、ドラマの体温を一段上げた。

視聴者が「先が気になり続けた1時間」と感じるのは、単に出来事が多いからではない。各トラブルが“舞台づくり”という一本の因果線に束ねられているから、観客の脳内に“次の手”が常に立ち上がる。だから面白い。

視線:内と外、観る者と観られる者

タブロイド記者の導入は、物語の「視線」を増やすうえで効いている。

劇団にとって“内側”=楽屋的空間に、外部の評価軸(取材)が流れ込むことで、久部の功名心、ダンサーのプライド、劇場運営の都合が露出する。

とりわけ「ダンサーとの写真」問題で、リカではなくパトラが前に出る小さなズレは、人物の序列や承認欲求を分かりやすく浮かび上がらせた。舞台の外側に“観客(メディア)”がいることを、物語自体が自覚し始めた瞬間でもある。

着地:「ショウ・マスト・ゴー・オン」の現代性

第4話のゲネで示された“やるしかない”精神が、第5話で完全に現物化した。

正直、初日の舞台は成功とは言いがたい。うる爺が“郡上おどり”でロスした時間と、演出の意図がズレた笑い——演劇的には痛い。

しかし、ここがリアルだ。舞台は生配信、事故は必ず起きる。問題は「どう回収するか」ではなく、「それでも続けるか」である。久部が吐いた「限度がある」という悔恨は、演劇の自由と責任の境界線に向き合った言葉だと思う。

久部と“演出”の孤独——論理で観るとこう面白い

演出家にとって、初日は“実験”であり“敗北”でもある。計画(プラン)と実際(パフォーマンス)の乖離は必ず起きる。

久部が突き当たった壁は、①キャストのコンディション、②観客の反応、③現場の突発事象

という三変数の相互作用だ。論理的に言えば、演出は“確率”に晒される職能であり、100%の再現性を持たない。だから彼は絶望し、だからこそ次の修正が生まれる。第5話は、久部が“演出の孤独”に気づく回として機能している。

カンパニーの“身体”——アンミカ&井上順の使い方

パトラ鈴木の肉離れ、うる爺の上がり症(からの盆踊り)——これらは単なるギャグではない。

三谷脚本は、カンパニーという“身体”の不調としてトラブルを描き、そこで初めて結束が立ち上がる構造を取っている。アンミカという「強いキャラ」をあえて躓かせ、井上順という「場慣れの象徴」に緊張を与える。定石を反転することで、観る者の予測を裏切り、同時に“舞台は生身”であると再確認させた。

樹里という“観客代理”の更新

お祓いに来た樹里は、これまでWS劇場に否定的な位置だった。

だが第5話では、彼女の視線が確実に揺れる。劇場に集う人たちの“人間くささ”と、蓬莱(神木隆之介)の視線の優しさに触れて、樹里が「外の目」から「内の目」へと半歩踏み込む予感が描かれた。

SNSや記事でも、“らんまん夫婦”再会の話題性にとどまらず、二人の化学反応に好意的な反響が見られる。つまり樹里は、物語の“観客代理”として再設計されつつある。

“楽屋”とはどこか——題名への応答

題名の問い「楽屋はどこか?」に、今話は仮説を提示する。

楽屋は単なる裏方部屋ではない。取材の視線が差し込む“外”、事故が連鎖する“舞台”、敗戦の夜に現れた“客席の老人”。この三者が連結した瞬間、楽屋は“場所”ではなく“状態”として立ち上がる。

つまり「守られた内側」ではなく、「守りたい関係」が生まれた場所こそが楽屋だ。久部が絶望してもなお、皆が一緒に居続けるなら、そこにはすでに“楽屋”がある。

是尾礼三郎という“次章の装置”

終盤に現れた是尾は、過去(蜷川演劇の記憶)と現在(WS劇場の試み)を結ぶ橋だ。

伝説の俳優が、粗削りな初日に“何か”を見いだす。これは“正解の提示”ではなく、“次の問い”の付与である。第6話では、是尾と久部の邂逅が物語を大きく動かす気配が示されている。初日の敗戦が、カンパニーを“更新”へと押し出す導火線になるのか——ここが次の見どころだ。

第1話の“溜め”は正しかったのか

第1話の賛否は激しかった。しかし、第5話の到達点を見てしまうと、あの“溜め”は設計として正しかったと筆者は思う

人物同士の関係線が熟していなければ、今回のジェットコースターは単なる騒音に見えたはずだ。蓬莱の視線、リカの矜持、モネの母としての誇り——それらの下地があるから、事故が物語になる。視聴者が「覚醒」と評した所以は、ここに尽きる。

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