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ドラマ「アンナチュラル」の5話のネタバレ&感想考察。葬儀で刺す「死の報復」は誰を救ったのか

ドラマ「アンナチュラル」の5話のネタバレ&感想考察。葬儀で刺す「死の報復」は誰を救ったのか

第5話で描かれた「葬儀で刺す」という出来事は、このドラマがもう“気持ちよく事件を解決する物語”ではないことを、はっきり示しました。

溺死は偽装だった。
犯人も分かった。
それでも、真実の先に待っていたのは救いではなく、取り返しのつかない報復でした。

この回が突きつけるのは、
「真実を知ることは、本当に人を救うのか」という問いです。
そして、その真実を“誰が”“どんな形で”渡すのかという責任。

中堂の選択と、ミコトの倫理。
第5話は、二人が同じ場所に立ちながら、決定的に違う方向を向いた瞬間でもあります。

ここでは、溺死偽装事件から葬儀での刺傷に至る流れを整理しながら、なぜこの回が『アンナチュラル』の物語を不可逆に変えたのかを考えていきます。

目次

アンナチュラル5話のあらすじ&ネタバレ

アンナチュラル5話のあらすじ&ネタバレ

第5話「死の報復」は、事件そのものの切れ味もさることながら、UDIの“人間関係の温度”が一度上がってから、一気に氷点下まで落ちていく回です。

ここから先はネタバレ全開でいきます。

UDIの人手不足と、中堂の“臨時サポート”が始まる

坂本が辞めたことでUDIは人材不足になり、しばらくの間、中堂系が三澄班のサポートに入る流れになる。

ここ、単なる「班替えイベント」じゃなくて、三澄班と中堂の距離が“仕事上の必然”で縮まる仕掛けなんですよね。互いに相容れないはずの二人が、同じ解剖台の前で手を動かすしかない状況が作られる。

中堂という男は、態度は最悪、口は悪い。

でも技術がある。しかも今回は、神倉所長も木林も含めてUDIがピリついている。空気の張り方がいつもより硬いのに、どこか“嵐の前”っぽい静けさがあるのが、第5話の怖さの入口。

青森から来た男・鈴木巧「妻は自殺なんかしない」

そこへ、鈴木巧という青年がUDIを訪れ、溺死した妻(果歩)の解剖を依頼する

青森で海に飛び込むところを目撃した人がいて、警察は自殺と判断している。それでも巧は「自殺のはずがない」と言い切る。前日にネックレスを贈ったばかりで、とても死を選ぶ状態じゃなかった、と。

ここ、巧の言い分が“感情”だけじゃなく“具体”で出てくるのがポイントです。

ネックレスという物証があるから、視聴者も「たしかにそれは変だ」と一緒に引っかかれる。法医学ドラマとしての導線がめちゃくちゃ丁寧。

解剖開始→木林が血相を変えて飛び込む「その遺体、盗まれてます!」

ミコトたちはいつも通り解剖に入る。溺死は、解剖しても自殺か他殺かの判断が難しいと断りつつ、それでも“今できること”をやる

ところが、葬儀社の木林が血相を変えてUDIへ。巧が持ち込んだ遺体は、葬儀場から盗み出されたものだった

の瞬間のヤバさは二重です。

1つは、倫理と法。執刀医のミコトが「死体損壊罪」という大罪を犯した形になってしまうこと。

もう1つは、巧の“切迫”。普通の人間なら、遺体を盗んでまで真相を求めない。そこまで追い込まれている、ということ。

さらに追い打ちで、巧は果歩と入籍していなかった(=法的には「遺体を動かす権利」がない立場だった)ことも明らかになる。

それでも“調べたい”が止まらない。中堂が肺を抜き取る

遺体は親族側に返され、巧は遺体の窃盗(死体領得)や死体損壊容疑で拘束される。

ミコトたちは騙されて解剖したことで罪に問われにくい立場になるが、問題はここから。中堂が、縫合の過程で肺を抜き取り、遺体を返してしまっていた。

これ、表面上は“証拠のため”なんだけど、同時に中堂の人格そのものが露出する行動でもあるんですよね。

彼は「真相究明」を正義として信じている。

でもその正義は、法や倫理を踏み越える危うさを孕む。そして何より、彼自身が“答えの出ない問い”に囚われている。

この回の中堂は、これまで以上に「仕事ができる嫌な奴」では済まなくなっていく。

「永遠に答えが出ない問い」—ミコトが“共犯”になる理由

巧の必死さに触れ、中堂はミコトに、法医学の意義をぶつける。「今調べなければ、永遠に答えの出ない問いに一生向き合うことになる。そういう人を減らすのが法医学じゃないのか」という趣旨の言葉。ミコトも、別の“永遠の問い”を抱えて生きてきた人間として、その論理が刺さってしまう。

ミコト自身、子どもの頃に母親による一家心中未遂に巻き込まれた過去を持つ

なぜ母はそんなことをしたのか、答えは得られない。でも「納得していないけど整理はできた」と言えるところまで来た。だからこそ、今度は自分が“問いに区切りをつける手助け”をしたい、という方向に意志が向く。

ここで面白いのは、二人が同じ言葉を使って、違う場所に立っていること。

ミコトの「区切り」は、生きるための前進。
中堂の「区切り」は、痛みの回収(=報復に近い)。

同じ論理で握手して、目的地が違う。第5話は、そのズレが爆発する話でもあります。

UDIの外で捜査開始。中堂の部屋が“ミニUDI”になる夜

業務外の調査なのでUDIの設備は使えない。そこで舞台が中堂の自宅へ移る。ここがまた巧い。UDIという“公”の空間を離れた瞬間、登場人物の関係が急に“私生活の距離”に侵入してくる。

生活感が薄く、本だけが多い部屋。中堂の人生が、いかに“外側”を切り落として生き残っているかが見える。ここに他人が土足で踏み込んでくる感じが、ちょっと切ない。

科学が矛盾を突く:プランクトン検査で「目撃地点=死亡地点」説が崩れる

ミコトと中堂は、入水地点と発見地点の海水の“違い”を調べる。ポイントはプランクトン(ウニのプルテウス幼生)で、目撃証言があった地点ではウニが獲れず、遺体発見地点では豊富に獲れる

肺に入っていた海水の特徴がどちらに近いかで、実際にどこで絶命したかを証明できる

この発想、法医学の面白さが“漫画みたいに分かりやすい”形に落とし込まれていて、しかも説得力がある。派手なアクションじゃないのに、検査の手順そのものがサスペンスになっている。

結果として、果歩は“発見地点で絶命した”可能性が浮上する。つまり、飛び込みが目撃された女性は別人だったのでは?という地獄みたいな仮説が、科学的に立ち上がってくる。

死因の決め手:CT画像と「ドライ・ドローニング(エベック反射)」

さらに、果歩は青森で解剖を拒否され、死亡時画像診断(CTなど)で溺死と判断されていた経緯がある。ミコトはそのCT画像を取り寄せ、所見を詰める。

そこで出てくるのが、普通の溺死とは違う、「ドライ・ドローニング」の可能性顔面から冷水に落ちた衝撃で意識を失う“エベック反射”が起きると、水の吸引量が少ない溺死になる、というロジックで死の形が絞られていく。

このピースがハマった瞬間、「足から飛び込んだ」という目撃証言が決定的に怪しくなる。果歩は“顔から”落ちた可能性が高い。足から飛び込む動作を見せたのは、果歩ではない。

真相:同僚の女が「自殺」に仕立てた。ネックレスが人を壊す

犯人は、果歩の同僚の女(まゆ)。嫉妬心から果歩を海に落とし、助けずに見殺しにし、さらに自殺に見せかけるために、事件現場から離れた埠頭で果歩のふりをして足から海に飛び込む“演技”までやっていた。

そして、ここでネックレスが刺さる。

巧が婚約指輪代わりに贈ったネックレスを、まゆが借りていた/身につけていたことが、疑いを確信に変えていく。人の幸せの象徴だったはずのものが、嫉妬のトリガーになり、殺意の燃料になり、最後には“犯人を特定する札”になる

雪の葬儀場。「報復」の刃が振り下ろされる

中堂が巧に事実を伝えると、巧はすべてを悟り、果歩の葬儀が行われる場へ向かう。

そこで巧は包丁を手に、まゆを刺す。ミコトが駆けつけて止めようとしても、巧はさらに刺してしまう

衝撃なのは、ここが「犯人を捕まえた、よかったね」で終わらないこと。まゆは命を取り留める一方で、巧は現行犯で逮捕される。果歩を愛した男の人生が、ここで決定的に壊れる

そして雪。冷たさが画面を支配する演出が、感情の行き場を奪っていく。

エピローグ:近づいたはずの二人が、いちばん深いところで決裂する

ミコトは中堂を責める。「こうなることが分かっていたのに止めなかったのか」。中堂は、巧が「本望だったんじゃないか」というような冷たい言葉を返し、自分の倫理観を揺らさない。

でもミコトは、そこで引かない。むしろ逆に、彼の核心—恋人・糀谷夕希子の事件—に踏み込むことを宣言する。「同情なんてしない」と言い切り、永遠の問いに決着を付けよう、と。

第5話のラストって、関係が壊れたようで、実は“本当のスタート”なんですよね。
ただし、温かい握手じゃない。冷えた手で、互いの傷口を掴み合うスタート。

アンナチュラル5話の伏線

アンナチュラル5話の伏線

第5話は、単発事件の解決だけを見ると「溺死の偽装を暴いた回」なんですが、シリーズの縦軸(=中堂の事件)に本格的に火がつく回でもあります。

ここでは“この回で撒かれた種”を整理しておきます。

中堂の「赤い金魚」と夕希子事件が、物語の背骨になる

中堂がUDIに執着する理由は、殺された恋人・糀谷夕希子の死の謎を自分の手で解き明かすため。彼は夕希子を殺した犯人を連続殺人犯だと考え、夕希子と同じく口内に「赤い金魚」のような跡がある遺体を探している。ここが、ドラマ全体の“背骨”です。

第5話でこの情報が言語化されることで、それまで「嫌な天才」だった中堂が、“物語の中心人物”に格上げされます。以降の事件は、単発で終わらず、この背骨にくっついていく。視聴者が「毎回の事件を見ながら、同時に別の事件も追っている」状態になる仕掛けが完成します。

「協力を要請する」=バディ誕生の合図。ただし、対等な友情ではない

中堂がミコトに“協力を要請する”やり取りは、この回の名物シーンのひとつ。でも、あれは単なるデレではなく、二人が同じテーマ(永遠の問い)を共有する宣言でもある。

ただし第5話は、「共感で繋がった」直後に「価値観の断絶」を叩きつける。つまり“バディの誕生”と“バディの亀裂”を同じ回で成立させて、次回以降の緊張感を作っています。これが伏線としてめちゃくちゃ効く。

久部六郎の“もう一つの顔”が、じわじわ侵食してくる

六郎の「週刊誌」とのつながりが示唆され続ける中で、第5話は六郎が三澄班と中堂班にまたがって忙しくなる描写もあり、“UDIの内部にいる人間が、外部と繋がっている”という不穏さが増していきます。

これ、シリーズ後半で効いてくるタイプの“静かな爆弾”です。事件そのものより、情報の流れが人を殺す、という『アンナチュラル』らしい伏線だと思います。

木林のポジションが「ただの葬儀屋」で終わらない

木林は第5話でも重要なタイミングで駆け込んでくるし、そもそも中堂が“赤い金魚”の遺体を探すために木林を使っている構図が示唆されている。葬儀社という、死が日常的に集まる場所を押さえている木林は、UDIと中堂を繋ぐ“現場の蛇口”みたいな存在です。

アンナチュラル5話の感想&考察

アンナチュラル5話の感想&考察

第5話を見終わったとき、胸に残るのは「事件が解決した爽快感」じゃなくて、「真実を掴んだはずなのに、誰も救われていない」っていう鈍い痛みでした。

脚本家の野木亜紀子さんが当時SNSで「ターニングポイント回」と呼んだのも、納得しかない

なぜ第5話が“ターニングポイント”なのか:物語が「正解」から降りる

第1話〜第4話までは、死因究明の先に「残された人が前を向ける」出口が(形としては)用意されていた。でも第5話は違う。死因は判明する。犯人も判明する。なのに、巧は逮捕され、果歩は戻らない。さらに犯人のまゆも(一命は取り留めるにせよ)人生が壊れる。

つまりここでドラマが言うのは、
「正解(真実)=救い、とは限らない」
ってことなんですよね。

放送当時、SNSでも「リアルベースで生と死を正確に扱うすごいドラマだ」といった賞賛が出たのは、まさにこの“綺麗に終わらないリアル”を描いたからだと思います

「真実を知りたい」は、祈りにも呪いにもなる

巧の行動は、祈りとして始まる。自殺で片づけられた恋人の死を否定したい。自分の愛が嘘になるのが耐えられない。だから真実が必要だった。

でも、その祈りが呪いに変わる瞬間がある。真実を掴んだ途端に「やるしかない」になる。疑いが確信に変わったとき、巧の中で“未来”が消えて、刃物の方へ一直線に傾く。

ここ、脚本の残酷さと誠実さが同居してる。
「真実が人を救う」と言い切らない。
「真実は人を壊す」とも言い切らない。
ただ、真実には“コスト”がある、と突きつける。

法医学って、死体を調べる仕事だけど、同時に“生者の心臓”を叩く仕事でもある。第5話は、その代償が一番分かりやすく噴き出した回でした。

中堂はなぜ止めなかったのか:彼は巧を救ったつもりで、巧を燃料にした

中堂は、止められたはずです。少なくとも、止めようとする選択肢はあった。でも止めない。理由は単純に“冷酷だから”じゃない。彼の中で、巧はかつての自分自身と重なっている。恋人を奪われ、理由が分からないまま生きる苦しみ。

中堂が言う「永遠の問い」という言葉は、表向きは法医学の理念に見える。でも実際は、彼の個人的な痛みの説明でもある。痛みを終わらせるには、犯人に辿り着くしかない。辿り着いたなら、報いを受けさせたい。

だから中堂は、巧に真実を渡す。

それが巧を“自由”にするのではなく、巧の人生を“燃やす”導火線だと分かりながら。

この回の中堂は、正義の顔をした加害者でもあると思う。

救ったつもりで、背中を押してしまった。

「選んだのは巧だ」と言い逃れもできる。だけど、あれは中堂が作った坂道でもある。

ミコトの倫理と中堂の倫理:同じ“優しさ”から分岐した二人

僕はこの回、ミコトが中堂に突きつけた言葉が一番刺さりました。

ミコトは「同情なんてしない」と言う。ここ、冷たい言葉じゃないんですよね。むしろ逆で、同情は相手を“弱者”として固定するから。相手を対等な人間として扱うには、同情で濁さない方がいい。

ミコトの優しさは、「生き残った人が未来を選べるように」働く優しさ。
中堂の優しさは、「奪われた痛みに見合う代償を支払わせたい」優しさ。

どっちも優しさなんですよ。人間らしい。
でも混ぜると危険になる。

だから第5話の二人は、急に近づいて、急に裂ける。あれは仲違いじゃなくて、“価値観の輪郭が初めて見えた”瞬間だと思います。

「ドライ・ドローニング」が象徴する、“見えない死”の怖さ

事件として見ても、第5話は法医学ミステリーの快感がある。プランクトン検査で場所を割り出し、CT画像で溺死のパターンまで詰める。証言より身体のサインが強い、という“科学の強さ”がちゃんと描かれる。

でも同時に、ドライ・ドローニングという「水をそんなに飲んでいない溺死」が示すのは、死は時に“分かりやすい形”で起きないという事実なんですよね。

自殺に見える。
事故に見える。
でも実際は、誰かの悪意が背中にある。

「見えない死」が増えるほど、見えない悪意も生き残る。だからこそUDIが必要だ、というメッセージが事件構造に入っている気がします。

雪のラストが残酷だった理由:冷たさの中で、人が“正しい顔”をする

雪の中で起きる刺傷シーンは、視覚的に美しいのに、心が冷える。あれは、感情が冷却されていく絵です。

復讐って熱い感情のはずなのに、画面は冷たい。
怒りって燃えるはずなのに、雪がそれを覆っていく。

そして中堂の表情が、凍ったまま動かない。「正しいことをした」と言い切れる顔でもなく、「間違った」と悔いる顔でもなく、ただ“終わらせた”顔に見える

第5話のラストは、答えを出した人間が必ずしも救われない、という現実の写し絵だったと思います。

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