9話では、離婚という選択を前に、小倉夫婦それぞれの「限界」が静かに描かれていました。

そして10話は、離婚が成立したその後、ふたりがどんな気持ちを抱えながら日常を生きていくのかに、真正面から向き合った回です。
見終えたあとに強く残ったのは、「これは離婚ドラマではなく、“言葉にできなかった感情”の物語なのだ」という感覚でした。
渉の「今、僕は怒ってます」という言葉が示していた本当の矛先、あんの“察してほしかった”想い、そして家族が迎える分岐点。
ここからは、10話を見終えた率直な感想と考察を整理していきます。
小さい頃は、神様がいて10話のあらすじ&ネタバレ

10話は、とうとう離婚が成立した小倉夫婦が「別れてから、どう生きていくのか」を静かに描いた回でした。離婚という決断をしたあと、それぞれが新しい生活へ歩き出していくものの、まだ互いを想ってしまう。その割り切れなさや、どこにも置き場のない“中途半端な痛み”が、時間をかけてにじみ出てくる構成になっています。
物語は、あんが「たそがれステイツ」を出て、一人暮らしを始めたところからスタートします。渉はゆずと順と3人で暮らし続け、永島家や奈央・志保たち住人も、あんの不在に戸惑いながら、それでも日常を回していく。
それぞれの場所で、生活は前に進んでいるはずなのに、どこか足りない感覚だけが残り続けています。
離婚後の「たそがれステイツ」と、ぽっかり空いた“あんの席”
あんが出ていったあとも、「たそがれステイツ」には、いつも通り朝が訪れます。
永島家のダイニングに住人たちが集まり、なんとなく皆でご飯を囲む光景は変わらない。けれど、誰も口には出さないものの、テーブルの一角には“あんの居場所”だけが、ぽっかり空いているような空気が漂っています。
そんな中、永島夫妻のなれそめ話になり、慎一が「うちは、こうやって里子を口説いた」と少し照れながら話し出すと、さとこもツッコミを入れつつ、どこか誇らしげな表情を見せる。いわゆる“老夫婦のラブストーリー”を微笑ましく聞いていた渉は、つい口を滑らせるように「ハッピーエンドって、いいですね」と漏らしてしまいます。
その瞬間、場の空気がほんの一拍、固まる。ここにいる全員が、あんとの離婚のことを知っているからです。「あ、ごめん」と渉が慌てて言い直そうとすると、ゆずが空気を切り替えるように「気を使わないで、普段通り話して」と声をかけます。
その一言をきっかけに、住人たちは堰を切ったように、あんの話題を語り始める。
「あんちゃん、こういうところが好きだったんだよね」と、料理の腕や細やかな気配り、落ち込んでいても無理に笑おうとするところまで、思い出が次々とこぼれていく。そこにあるのは、“もうここにはいない人”を偲ぶ、家族のような温かさと、どうしようもない寂しさが同時に混ざり合った時間でした。
奈央と志保のキッチンカーと、渉が見てしまう「もうひとつの人生」
一方で、奈央と志保は人気のキッチンカーで修業の日々を送っています。キビキビと動き回りながら、店長から容赦ないダメ出しを受け、それでも顔を見合わせて笑い合い、前向きに乗り越えていく姿が描かれます。
仕事帰り、渉がふと彼女たちのキッチンカーを訪ねると、そこには“新しい仕事場で汗をかき、挑戦しているふたり”の姿がありました。以前の居場所から一歩外へ出て、別の道を選び、前に進んでいる。その姿は、どこかまぶしく映ります。
この職場には、ちょうど育休に入る予定の男性スタッフもいます。彼は「子どもが生まれるから、しばらく育休を取るんです」と、特別なことではないかのように、当たり前の笑顔で話します。
その様子を見た渉は、思わず想像してしまうのです。
「もし、自分もこうやって、当たり前に育休を取れる時代に生きていたら」
「もっと早く、“父親としての一歩”を踏み出せていたら」
現実の渉は、昭和的な価値観をどこか引きずった“仕事優先おじさん”。
家事や育児の多くをあんに任せきりにし、その積み重ねが離婚に繋がったことを、今では痛いほど理解しています。だからこそ、目の前の若い男性に、自分の“なれなかった姿”を重ねてしまうのです。
永島家の夜「今夜はみんなで泣こう」の抱擁シーン
その夜、永島家では、またひとつ小さなドラマが起こります。
寝静まったはずの時間、さとこがふと目を覚ますと、リビングのソファで凛が一人、静かに泣いていました。理由を尋ねると、凛は「ママに縄跳びを見せたかった」とぽつりとこぼします。
もうこの世にいない母親に、上手くなった縄跳びを見せたかった。それが叶わないと分かった瞬間の悔しさと寂しさが、夜の静けさの中で、一気にあふれ出してしまったのです。
さとこは凛をぎゅっと抱きしめ、「こっちおいで」と慎一のもとへ連れていく。慎一も無言のまま抱き寄せ、やがてほかの子どもたちも目を覚まし、自然と皆が集まってくる。そして、その場にいた全員で、声を殺しながら泣く時間が始まります。
「今夜は、みんなで泣こう」
そう言って、永島家はひと晩だけ“泣く家”になる。ここで描かれるのは、悲しみを無理に前向きな言葉に変えようとしない、泣くことそのものを肯定する時間です。渉やあんが、これまで飲み込んできた涙とも重なり合う、とても静かで印象深いシーンでした。
一人暮らしを始めたあんと順の会話ーーSOSを出すことが怖い
その頃、あんは新しい部屋で、一人暮らしを始めています。
仕事から帰ってきても「おかえり」と声をかけてくれる人はいない。キッチンに並ぶのは、一人分の食器だけ。長年“家族の中心”として動き続けてきたあんの背中が、ぽつんと浮かび上がります。
そんなあんを気にかけて、息子の順が「ご飯、行かない?」と声をかけます。二人は外で食事をしながら、あんの母親の話や、自分たちの“親世代”について、少しずつ言葉を交わしていきます。
あんの母は、「自分はこんなに犠牲になった」と、子どもに言い続けてきた人でした。その言葉を浴びながら育ったあんは、「誰かに頼る=迷惑をかけること」だと、無意識のうちに刷り込まれてしまった。だからこそ、夫にSOSを出すのが苦手になり、「一度聞き流されたら、もう二度と頼りたくない」と心を閉ざしてしまう癖がついてしまったのだと語ります。
順はその話を遮らず、静かに聞き続けながら、「それでも、言ってくれなきゃ分からないこともある」と返します。あんの“察してほしい気持ち”と、“伝えられない不器用さ”、その両方を受け止めようとする立場に立つ順の姿が、印象的に描かれます。
この食事のシーンは、単なる親子の会話ではありません。
「なぜ、あんは渉に何度も言えなかったのか」
「なぜ、渉は本当に困っているサインを受け取れなかったのか」
その根っこを、丁寧に掘り下げていく時間になっています。
ゆずの“監督デビュー”動画プロジェクトが始まる
そんな中、ゆずは「動画を作って、あんに送りたい」と思い立ちます。たそがれステイツの仲間たちにインタビューをし、今の暮らしや、あんへのメッセージを一本の動画にまとめようという計画です。
奈央と志保は、キッチンカーの前で働く姿をそのまま撮影してもらいながら、「あんちゃんのおかげで、ここまで来られた」と、飾らない言葉で想いを語ります。渉の元同僚・早乙女も、渉の変化をちゃかしつつ、本気で応援している空気をにじませます。
永島家では、慎一がフレンチトーストを焼く様子にカメラが入り、さとこは、あんに向けて「また一緒にご飯、食べたいね」と柔らかな笑顔を見せる。少し離れた家族に送る、ビデオレターのような場面が続いていきます。
ここで、ゆずは渉にも動画への参加をお願いするのですが、渉は「後で、ちゃんと撮ってほしい」と答えます。どこか覚悟を決めたような、その表情が、このあとの“渉の長ゼリフ”へと繋がる伏線になっています。
渉の動画メッセージ「今、僕は怒ってます」
物語のクライマックス。ゆずが編集した動画が完成し、あんは一人で訪れたカフェで、スマホ越しにそれを見ることになります。
たそがれステイツのみんなの近況やメッセージが次々と流れたあと、画面に映し出されるのは渉の姿。いつもの少し頼りない父親ではなく、どこかきちんとした服装で、けれど表情だけはどうしようもなく不器用な男の顔です。
渉は動画の冒頭で、こう切り出します。
「今、僕は怒ってます」
それが、あんに向けた怒りではないことは、すぐに分かる口調でした。
渉が怒っているのは、何よりも自分自身に対してです。
・家事も育児も“手伝い”の域を出ず、本気で一緒にやろうとしなかったこと
・あんのしんどさを、「ちょっと疲れているだけだろう」と軽く受け流してしまったこと
・若い頃、「何かあったら離婚していいよ」と口にした約束を、都合のいい冗談として忘れていたこと
ひとつひとつ、自分の過ちを挙げながら、「そんな自分に、今、怒っている」と言葉を重ねていきます。
そして、「あんが本当に欲しかったのは、『一緒にやろう』の一言だったのに、その一番シンプルな言葉を、なぜ自分は言えなかったのか」と、自分を責める。その痛切さが、強く胸に残る場面です。
ただ、渉はそこで終わりません。
「でもさ、あん。なんで、ちゃんと『一緒にやってほしい』って、何度でも言ってくれなかったんだよ」
動画越しに、いまさらのように、そんな言葉をぶつけてしまう。あんに対しても、怒りがまったくないわけではない。「一度伝えてダメだったからって、簡単に諦めてしまったんじゃないか」「自分に、まだチャンスをくれてもよかったんじゃないか」。
それは、あんを責めたいというよりも、“自分に向ける怒りを、共有してほしい”という叫びに近いものでした。渉は最後に、「こんなこと、今さら言ってもどうしようもないけど」と前置きしながら、「それでも、まだ、お前のことが大事なんだ」と、にじませるように言葉を添えて、動画を締めくくります。
動画を見ていたあんは、カフェのテーブルの向こう側で、静かに涙をこぼします。姉として、母として、妻として、ずっと飲み込んできた感情が、一気に決壊するようなラストでした。
あんが受け取った“遅すぎたラブレター”
10話のラストシーンでは、何か大きな事件が起きるわけでも、はっきりとした“復縁フラグ”が立つわけでもありません。ただ、あんが動画を見て泣いている。その背中を、視聴者が少し離れた場所から見守るような形で、物語は終わります。
けれど、この動画は間違いなく、“渉からあんへのラブレター”であり、同時に“反省文”でもあります。あんも、渉も、傷ついたのはお互い様で、どちらか一方だけが悪かったわけではない。「もっと、こうすればよかった」と思うポイントが、いくつも重なり合っている関係だったことが、改めて浮き彫りになります。
10話は、そんな“遅すぎた気づき”を、最後まで丁寧に描き切った回でした。最終話に向けて、「ふたりは、もう一度家族になれるのか」「それとも、それぞれ別の道を選ぶのか」。その問いを、静かに視聴者へ投げかける形で、物語は次へと進んでいきます。
小さい頃は、神様がいて10話の感想&考察

10話を見終えたあと、まず強く残ったのは、「これは離婚ドラマというより、“言葉にできなかった気持ち”を描いた物語なのだな」という感覚でした。
ここからは、少し整理しながら感想と考察を書いていきます。
渉の「今、僕は怒ってます」は、自分自身への宣戦布告
タイトルにもなっている「今、僕は怒ってます」。この言葉は、一見すると渉があんに向けて放った強い感情表現のようにも聞こえますが、実際に向けられていた矛先の大半は、“自分自身”でした。
- パートナーからのSOSを「また今度ね」と後回しにしてきた過去
- 子どもの前で、何度も“都合のいい約束”を口にしてしまったこと
- 家族のことを、どこかで「何とかなる」と慢心していた姿勢
こうした「やってしまった過去」は、決して渉だけの話ではありません。渉の姿に自分を重ね、「見ていて反省した」「胸が痛くなった」と感じた人も少なくなかったはずです。
10話の渉は、言ってしまえば“遅すぎる反省”をしている状態です。あんにとっては、「その気づきが、もっと早ければ…」という思いが湧くのも無理はありません。その意味で、この動画は“誠実な謝罪”であると同時に、“あんの傷をもう一度なぞってしまう危うさ”も含んでいます。
それでも渉が、あえてあの言葉を口にしたのは、「きちんと怒ることでしか、自分を変えられない」と、どこかで悟ったからなのだと思います。
これまでの渉は、
「自分を責めすぎると立ち直れないから」
「夫婦なんて、こんなものだから」
と、よく言えば楽天的、悪く言えば鈍感な態度で、現実から目を逸らしてきました。
そんな彼が初めて、自分のダメさを言葉にし、「それが悔しい。だから怒っている」とはっきり宣言した。この瞬間こそが、渉という人物にとっての大きなターニングポイントだったと感じます。
あんの“察してほしかった”と、渉の“言ってくれなきゃ分からない”
一方で、多くの視聴者の間で議論になっていたのが、「あんも、察してもらおうとしすぎたのではないか」という点でした。
あんの立場から見れば、
「何度もきちんと頼んだのに、渉は“はいはい”と受け流した」
「それなら、もう言っても無駄だと諦めた」
という積み重ねがあります。
一方、渉の側からすると、
「愚痴としては聞いていたけれど、“本気のSOS”だとは気付けなかった」
「具体的に『こうしてほしい』と言われた記憶が、あまり残っていない」
という認識だったのでしょう。
この食い違いは、現実の夫婦やカップルにもよくある、非常にリアルなズレです。
10話で描かれた“あんの母親像”も踏まえると、あんは「自分が我慢すれば、その場は丸く収まる」と刷り込まれて育ってきた人でした。だからこそ、助けを求めること自体に罪悪感を抱えてしまう。
対して渉は、「言われなければ分からない」という、ある意味で“合理的な男思考”の持ち主。この「察してほしい」と「言ってくれなきゃ分からない」が、正面からぶつかり合っていたのです。
この溝を埋めるには、どちらか一方だけが努力するのでは足りません。
- あんは、自分のSOSを“わがまま”ではなく“正当な要求”として捉え直すこと
- 渉は、「言ってもらえるまで待つ」のではなく、「困っていそうなときに自分から声をかける」姿勢を身につけること
10話の動画は、その最初の一歩として、“渉が先に自分を責めてみせた”場面だったのだと解釈できます。
ゆずの動画は、家族の「卒業アルバム」であり「再出発の合図」でもある
ゆずが撮った動画は、一見すると温かな“思い出ムービー”ですが、実はとても残酷な役割も背負っています。
・あんがいない場所でも、変わらず日常を続けている「たそがれステイツ」の姿
・そこに映るのは、あんを想いながらも、“あん不在の生活”を受け入れ始めた人たち
この映像は、「あんが戻ってこなくても、世界は回り続ける」という現実を、静かに突きつけてきます。
その中で、唯一“過去にしがみついている”ように見えるのが、渉のメッセージでした。彼だけが、まだ「あの頃の家族」に強い未練を抱え、その想いを言葉にしている。
だからこそ、あの動画は、
・あんにとっての“家族の卒業アルバム”
であり、同時に
・誰かが次の一歩を踏み出すための“再出発の合図”
にもなり得る存在です。
最終話に向けて、この動画が「復縁へのきっかけ」になるのか、それとも「きちんと別れるための最後のラブレター」になるのか。その行方が、最大の焦点だと感じました。
永島家の“泣く夜”が象徴しているもの
10話でもう一つ、強く印象に残ったのが、永島家の「今夜はみんなで泣こう」という場面です。
あのシーンは、渉やあんが“泣くタイミングを失い続けてきた大人たち”であるのに対し、永島家が“ちゃんと泣ける場所を用意できる大人たち”であることを、はっきりと示していました。
凛が「ママに縄跳びを見せたかった」と声を上げて泣く。その気持ちを、さとこと慎一が否定せず、丸ごと受け止める。そこには、「前を向こう」「泣いても仕方ない」といった言葉は一切ありません。
この“泣くことの肯定”は、そのまま、あんと渉にも必要だったプロセスだったように思えます。
- あんは、子どもたちの前で強い母であろうとしすぎて、泣く場所を失っていた
- 渉は、泣こうとすると「男が泣いても仕方ない」と、自分で感情を抑え込んできた
だからこそ、たそがれステイツという場所全体が、ふたりにとっての“楽屋=泣いていい場所”だったのではないか。10話を見て、改めてそう感じました。
10話は「復縁フラグ」か、それとも“別れを美しく描くための準備”か
どうしても気になるのは、「この先、ふたりはどうなるのか」という点です。
「ここまで描いたなら復縁してほしい」という声もあれば、「別れを受け入れる物語として終わってもいい」という意見もあり、受け取り方は大きく分かれています。
個人的には、10話は“どちらにも転べるように作られた回”だったと感じました。
- 渉は、本気で反省し、自分を変えようとしている
- あんも、自分の「察してほしい」という癖と向き合い始めている
- 子どもたちは、親の選択を受け止められるだけの強さと優しさを持ち始めている
この状態なら、
「離婚したまま、別々の場所から支え合う」結末
「一度離れてから、もう一度夫婦として挑戦する」結末
どちらを選んでも、嘘にはならない。
10話は、その分岐点を、とても丁寧に描いた回だと言っていいでしょう。
いずれにしても、渉の「今、僕は怒ってます」は、あんへの当てつけでも、未練混じりの愚痴でもありません。「ここから、自分の生き方を変える」という宣言でした。
その宣言を、あんがどう受け取るのか。
泣きながら動画を見ていたあんの横顔には、未練も後悔も、そしてほんの少しの希望も混ざっているように見えました。
最終話で描かれるのは、きっと「どちらを選んでも間違いではない」という、優しい答えなのだと思います。
10話は、その答えにたどり着くために、登場人物全員がようやくスタートラインに立った――そう言える、静かだけれど非常に重要な一話でした。
「小さい頃は、神様がいて」の関連記事
「小さい頃は、神様がいて」の全話ネタバレはこちら↓

「小さい頃は、神様がいて」の過去の話↓





コメント