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良いこと悪いことの「どの子」と「ドの子」の正体とは?園子と瀬戸紫苑(せとしおん)を徹底考察

良いこと悪いことの「どの子」と「ドの子」の正体とは?園子と瀬戸紫苑(せとしおん)を徹底考察

「どの子とドの子って、同じことじゃないの?」

多くの視聴者がそう思っていたはずです。

しかし――8話のラストで「瀬戸しおんです」という少女が現れた瞬間、その認識は完全にひっくり返りました。

「どの子」=園子は“見えていた被害者”。
「ドの子」=瀬戸しおんは“忘れられていた被害者”。

この二人の“ドの子”をめぐる構図こそが、連続殺人の動機を解く最大の鍵。

今回は、園子と紫苑それぞれの立場・いじめの形・物語上の役割を丁寧に整理しつつ、「良いこと悪いこと」最大の核心に迫ります。


目次

良いこと悪いことの「どの子」とは猿橋園子のこと

良いこと悪いことの「どの子」とは猿橋園子のこと

まず整理しておきたいのが、「どの子」と「ドの子」は、そもそも誕生した経緯も意味もまったく違うという点です。

日本テレビ公式の相関図では、猿橋園子の紹介にしっかり「どの子」と併記されています。

園子は6年生の時に鷹里小へ転校してきて、キングたちから壮絶ないじめを受けていた女の子。現在は週刊アポロの記者として事件の真相を追い続ける“能動的なヒロイン”として描かれています

「どの子」の由来は、あの教室で投げられた残酷な一言

呼び名の由来は、あまりにもシンプルで、あまりにも残酷です。

転校してきて席に座った園子を見て、クラスメイトが

「ねえ、どの子?」

と指をさし、笑いながらひそひそ話をした――。その何気ない嘲笑が、そのまま園子のあだ名になってしまったと説明されています。

名前で呼ばれない。
“誰でもない存在”として扱われる。
「どの子?」と、人格ではなく“記号”として雑に扱われる。

その瞬間、園子は“人間”としてではなく、“ターゲット”として教室に配置されてしまったわけです。

この出来事を境に、園子は閉所恐怖症を抱えるほど深い心の傷を負いながら、

「私はあの子たちみたいな悪い子にはならない」

と必死に自分を保ち、“まっすぐ生きる”ことを選んだ人物として描かれています。

つまり園子、すなわち「どの子」は、

  • 教室で“見えていた被害者”
  • 過去の痛みを抱えたまま、“いい大人になろうとする現在進行形の当事者”

という二重の立場で物語に存在しているのです。

現在パートの園子が背負う「どの子」という呪いと力

現在の園子は、週刊誌記者として“悪い大人”たちと対峙し続ける強い女性として描かれています

しかし視聴者は知っています。

彼女自身がかつて“悪い子”たちの標的だったこと。
その過去を必死に押し込み、「悪い子にはならない」と決めて生きてきたこと。

だからこそ、現在のストーリーで、

  • 加害側の中心だったキング
  • 被害側の象徴だった園子

が、連続殺人を止めるために肩を並べて走っている構図は、非常に複雑で、胸に迫るものがあります。

「どの子」というあだ名は、園子にとって長い間“呪い”のような言葉でした。
けれど今の園子は、その言葉を

「自分は絶対に悪い子にはならない」
という決意の出発点

として背負い直し、前へ進んでいるようにも見えます。

この“過去の呼び名と現在の生き方の矛盾”こそが、園子というキャラクターの芯そのものであり、物語のテーマ「良いことと悪いことの境界」に最も深く触れている部分だと感じます。

「ドの子」とは誰なのか 第8話までの“確定情報”で瀬戸しおん

「ドの子」とは誰なのか 第8話までの“確定情報”で瀬戸しおん

一方で、第8話で一気に存在感を増したのが「ドの子」です。

まず“事実ベース”を固めます。

「ドの子」は“字幕”が最初の手がかりだった

視聴者が最初に違和感を覚えたのは、セリフではなく「字幕」でした。

園子のことを指しているように聞こえる場面で、字幕だけが「ドの子」とカタカナ混じりで表記されていた。

この“微妙な表記揺れ”が、

  • 単なる誤字では?
  • いや、脚本側の仕掛けなのでは?

という推測を呼びました。

これを整理すると、

  • ひらがなの「どの子」:園子のあだ名
  • カタカナ混じりの「ドの子」:別に存在するターゲット候補

という“二重構造”が見えてきます。

この段階ではまだ視聴者の気づきレベルでしたが、これが8話で一気に確定へと傾きます。

タイムカプセルDVDに映っていた少女「瀬戸しおん」

8話のクライマックス、高木たちがイマクニで「みんなの夢」DVDを再生すると、映像が一度終わったあとに謎の追加映像が流れます

そこに登場したのが――

「瀬戸しおんです。夢はピアニストになることです」

と話す少女。

8話の解説記事では、この少女は瀬戸紫苑(せとしおん)と表記されており、
森が語った言葉――

「やっと思い出しましたか。ドの子。もう一人のドの子」

と完全にリンクします。

つまり公式または限りなく公式に近い形で、

✔ 園子とは別の“ドの子”が存在していた
✔ その人物こそ瀬戸しおん(瀬戸紫苑)

と裏付けられた形です。

8話終了時点で“確定”しているドの子情報

8話時点で“事実として言える”のは、以下のポイントです。

  • 「どの子」=園子とは別に、“ドの子”が確かに存在した。
  • その“ドの子”は、瀬戸しおん(瀬戸紫苑)という少女。
  • 夢はピアニスト。音楽モチーフと強く結びついている。
  • 掲示板には「ドの子を無視しよう」のような、いじめ書き込みが残っている。
  • 森(博士)はその掲示板を前に「消さなきゃ」とつぶやいていた。

一方で、まだ断定できないのは次の部分です。

  • 瀬戸紫苑は現在どうしているのか(生存しているのか)
  • 彼女自身が事件に関与しているのか、家族や近しい大人なのか
  • “ドの子”がなぜ現在の物語から完全に消えているのか

紫苑は“見えない被害者”として最も深いところに位置しており、この物語の核心を握っていることだけは間違いありません。

園子と瀬戸紫苑――何が違うのか

園子と瀬戸紫苑――何が違うのか

タイトルに立ち返ると、「どの子」園子と「ドの子」紫苑は、どちらも被害者である可能性が高い存在です。

ただ、その“見え方”には決定的な差があります。

園子は“見えていた被害者”

園子はいじめ描写がわかりやすく、視聴者も初回からずっとその痛みを実感してきました。

  • 転校早々、クラス全体から露骨ないじめ
  • 「どの子」と呼ばれ、存在自体を雑に扱われる
  • 卒アル黒塗り事件にも巻き込まれ、深い心の傷を負う

現在パートでは、
「悪い子にはならない」と信念を抱えたまま働く“強さ”が描かれています。

園子は

✔ 被害が“目に見える形”で描かれた人物
✔ 加害者側(キングたち)と正面から向き合う当事者

という、とても分かりやすい構図を持っています。

紫苑は“ほとんど見えていなかった被害者”

一方、紫苑について分かっている情報は極端に少なく――

  • DVDに少し映っただけ
  • 教室の誰も覚えていない
  • 呼び名は「ドの子」
  • 掲示板にはいじめの痕跡だけが残る

という“ほぼ痕跡のみ”のキャラクター。

園子が“痛みを伴って覚えている”被害者だとすれば、紫苑はむしろ

“存在ごと忘れ去られた被害者”

という、さらに残酷な扱いを受けていた可能性があります。

紫苑についてはこちら↓

6年生のいじめと、5年生から続いた“音楽のいじめ”

ここを音楽モチーフで整理すると、二人の線はもっとクリアになります。

園子(どの子)

  • 名前をもじったあだ名
  • ランドセルや教室での目に見えるいじめ
  • “6年生のいじめ”の象徴

紫苑(ドの子)

  • ピアノ・音階“ド”と強い結びつき
  • 掲示板の「ドの子」書き込み
  • オープニングの壊れたピアノとリンク
  • “5年生からの根深いいじめ”の可能性

考察勢の中には、

園子はいじめの“表の被害者”
紫苑はいじめの“裏の、より根深い被害者”

という整理をする人が多くなっています。

もしこの構図が正しいなら、

  • 園子は“悪い子にならないために強く生きようとした人”
  • 紫苑は“その力さえ奪われた人”

という、痛ましいほど対照的な二人だと見えてきます。

「どの子」と「ドの子」が映し出す、加害と被害のグラデーション

「どの子」と「ドの子」が映し出す、加害と被害のグラデーション

被害者の“見え方”の違い

最も大きいのは、「見えていた被害」と「見えていなかった被害」の差です。

どの子・園子は、被害が“可視化されていた”子。

  • クラス全員が「いじめていた/見ていた」と言い切れる存在
  • 加害者も傍観者も、自分の罪を自覚しやすい
  • 転校早々ターゲットにされ、ランドセルを壊され、閉じ込められ、心に深い傷を負った

園子の痛みは、視聴者がずっと見てきた“表のいじめ”として物語の中心に置かれていました。

一方のドの子・紫苑は、“ほとんど見えてこなかった被害者”。

  • 掲示板に残った「ドの子を無視しよう」などの書き込み
  • DVDの数秒だけに痕跡が残る人物
  • クラス全員が「思い出せなかった」存在であり、忘却という二重の暴力を受けている

園子が“痛みを伴って思い出される被害者”だとすれば、紫苑は“そもそも記憶からこぼれ落ちてしまった被害者”。

この差は、とてつもなく残酷です。

  • どの子=“見られた痛み”
  • ドの子=“見られなかった痛み”

という構図が、ここでくっきり浮かび上がります。

「いったい誰を覚えていなかったのか」という問い

ドラマが投げかけている根本のテーマは、「加害者/被害者の線引き」だけではありません。

むしろこんな鋭い問いかけです。

「誰のことを覚えていなかった時点で、それは“加害”になるのか?」

園子は“覚えられていた”被害者。
紫苑は“忘れられていた”被害者。

記憶の扱いそのものが暴力になりうる、という視点が強烈に立ち上がってきます。

「良い子」と「悪い子」のあいだに立つ“ドの子”

タイトルは「良いこと悪いこと」。

森もキングも、自分の位置をこう言い訳し続けています。

  • 「俺は良い子じゃなかった」
  • 「僕は悪くない」

しかし、「どの子」「ドの子」というあだ名には、“良い”も“悪い”も含まれていません。

どの子
ドの子

どちらも「誰か」「無数の中のひとり」といった、記号のような響きしか持っていない。

つまりこの言葉自体が、

  • 名前を奪われ
  • 個性を奪われ
  • “分類外の存在”に追いやられた子ども

を象徴しているようにも思えます。

良いことをしたから生き残るわけではない。
悪いことをしたからだけで死ぬわけでもない。

その中間に置かれた存在こそ、園子であり、紫苑であり、森であり、キングたちだった。

まさに“グラデーションとしての加害と被害”が、この二つのあだ名に凝縮されています。

園子と紫苑、二人の“ドの子”がどこで交わるのか

8話終了時点の二人は、情報量に大きなギャップがあります。

園子(どの子)
→ 最初から画面の中央にいた、“見える被害者”。

紫苑(ドの子)
→ ようやくDVDで姿が現れた、“見えなかった被害者”。

しかし、タイムカプセルの中で二人の「夢」が並んでいたことを思えば、脚本側は明らかに

「子どもたちの夢が、どんな大人を生んだのか」

というテーマを描こうとしています。

園子は、
“いじめを受けても生き延び、自分の道をつかんだドの子”。

紫苑は、
“夢の途中で道を断たれた可能性のあるドの子”。

もしこの二人の線が最終的に交わるとすれば、それは

「どちらが不幸だったかを競う物語」ではなく、
“どちらも人として記憶し直す物語”

であってほしいと感じます。


「どの子」と「ドの子」。
この二つの呼び名の違いに込められた意味を、
ドラマは最後まで問い続ける。

最終回に向けて、この二つの存在がどのように再定義されるのか――
じっくり見届けたいところです。

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