『不適切にもほどがある!』8話は、派手な事件が起きないにもかかわらず、最も胸がざわつく“社会の痛点”に踏み込んだ回でした。
過去の不倫で干されたアナウンサー・倉持の復帰をめぐり、SNSの断罪、テレビ局の過剰な予防テロップ、そして「1回しくじったらダメですか?」という問いが突きつけられる。
市郎の豪快な“寛容”と栗田の“慎重すぎる管理”の対比、令和に来たムッチ先輩の騒動を重ねながら、作品は“やり直す権利”と“世間の視線”の隔たりを鋭く描き出した。
不適切にもほどがある!(ふてほど)8話のあらすじ&ネタバレ

第8話のキーワードは 「1回しくじったらダメですか?」。
昭和から令和に流れ着いた価値観の摩擦が、テレビという“見られる場”を舞台に、個人の過去の過ちと“世間のまなざし”を正面から描き出していきます。
公式の筋立てに沿いながら、重要場面を時系列で整理します。
プロローグ――令和に来た“ムッチ先輩”が見たもの
令和へタイムスリップしたムッチ先輩(磯村勇斗)は、偶然にも“未来の息子”にあたる秋津(磯村勇斗/一人二役)と対面。ところが、入れ違いで純子(河合優実)が昭和へ戻ったと知り、「未来に来た意味がない!」と大騒ぎ。
井上(三宅弘城)から“タイムマシンの秘匿”に関わる説明を受け、ドッペルゲンガーのように恐れパニック状態で逃走。
コメディの熱を保ちつつ、“父と子の鏡像関係”がさりげなく立ち上がる導入です。
倉持猛、復帰目前で“やり直し不可”の壁にぶつかる
一方、EBS局のカウンセラー・市郎(阿部サダヲ)のもとを訪ねたのは、入社7年目のアナウンサー倉持猛(小関裕太)。
彼は“ある不倫スキャンダル”が原因で閑職に回され、ようやく復帰目前――しかし、リスクマネジメント部の新部長・栗田(山本耕史)が就任した瞬間、話は仕切り直しに。
市郎は渚(仲里依紗)とともに栗田&瓜生(板倉俊之)に直談判。
市郎が「見たくないなら見なくて結構」と言うたびに〈この発言は個人の見解です〉とテロップが挿入されるメタ演出は、“見てもいない人たちの声”がコンテンツを縛る現実を皮肉たっぷりに示します。
“条件付きの赦し”――復帰は認められるが、世間は手荒い
粘りの交渉の末、倉持はアナウンサー復帰を果たす。しかし、オンエア直後からSNSは冷笑と断罪の嵐。
たった一度の過ちが“永久資格停止”のように扱われ、局内の空気すら急速に冷え込む。
市郎は疑義を突きつけ続け、「情報を消費する側の匿名の正義」と、倉持の「生き直し」の願いが真っ向から対立。視聴者の倫理観も同時に揺さぶる展開です。
栗田の“もう一つの顔”――ホームパーティーで露呈する緊張
栗田は倉持と市郎を、自宅の結婚20年記念パーティーに招待。
妻・加世子(紺野まひる)と、その幼なじみポッキー(宮下今日子)・タイコ(遠山景織子)が迎える場は、昭和ホームドラマめいた和やかさと緊張が入り混じる場所。
職場では“リスク管理の番人”。
しかし家庭では、人の顔色をうかがう“不器用な夫”という別の顔が露わに。
一度栗田は不倫をしてしまったため、妻には許されずに一生家庭では身分が下のまますごしていた。
このギャップが、倉持への姿勢にも影響を落とす“人間的な揺らぎ”として効いてきます。
“テレビを見ていない人のテレビ批判”――テロップが語る時代
倉持復帰をめぐり、局は“炎上対策”として、番組内で発言のたびにテロップを重ねる異様な状態に。
これは第8話の核心。
- 作り手が“観ない人”の怒りすら想定し自己規制
- 視聴者の“見ない自由”が、逆に“作り手の萎縮”に転化
- “怒られる前提”で番組を作らざるを得なくなるテレビ
市郎の“乱暴な寛容”と栗田の“過剰な慎重”は、どちらも“視聴者の欲望に怯えるテレビ”の表裏であることが痛烈に描かれます。
ムッチ先輩の“令和観光”が照らす、父と子の距離
ムッチ先輩は、“すきゃんだる”にサインを残すほど上機嫌。
しかし純子不在の事実に打ちのめされ、井上のドッペルゲンガー説明でさらに混乱。
未来の息子=秋津を前に怯えるムッチの姿は、
- 「父になることの怖さ」
- 「家族を持つ不安」
など、シリーズ全体を貫く“家族”テーマの中核を静かに照らしています。
それでもマイクの前に立つ――倉持の二度目の選択
批判まみれの空気。それでも倉持はもう一度マイクの前へ立とうとする。
- 市郎は「見たくないなら見なくていい」と背中を押し
- 渚は“私的過失と職業適性の分離”を整理し
- 栗田は“局の安全”を理由に揺れつつ、切り捨て切れない
“更生の機会”と“公共の信頼”——二つの正義がせめぎ合う、極めて現代的な葛藤が描かれる。
ラストの茶目っ気――“食レポの人”がチラリ
終盤には彦摩呂がサプライズ登場。
SNSがざわつく“令和テレビ的な遊び”で、物語は軽やかに幕を閉じます。
不適切にもほどがある!(ふてほど)8話の感想&考察。

第8話は、表向きには事件が起きない。
それなのに「胸の奥がざらつく」——それは“誰もが加害者にも被害者にもなりうる”言葉の経済を、笑いの衣をまとって描いたからです。
「見ていない人の声」と“予防テロップ”のメタ構造
発言のたびに差し込まれる〈個人の見解です〉テロップ。
これは現代のテレビが直面する、“予防線としての自己規制”そのもの。
- 番組を“ちゃんと見ていない人”の声が炎上の主戦力
- 非当事者の正義が、当事者の人生を簡単に追い詰める
- 「視聴の自由」が「制作者の萎縮」へと変換される
視聴者の側にも突きつけられる鋭い問いでした。
“一回しくじったらダメですか”という射程の広さ
倉持の“不倫”は犯罪ではない。
それでも“顔を出す職業”にはより高い倫理が求められ、多くの視聴者はそれを期待する。
- 市郎は「見たくないなら見ない自由」を守り
- 渚は“業務適性”の文脈を提示し
- 栗田は“局の信頼と炎上回避”を重視する
三者三様の正義が衝突。
安易な“赦し”でも“断罪”でもなく、その間のゆらぎを描く脚本が見事。
栗田という“媒介者”のリアリティ
栗田はただの“冷徹な上司”ではない。
家庭では、他者の評価に怯え、肩に力が入る“普通の夫”でもある。
その不器用さは、
- 他者の再起への過剰な慎重
- 自分の地位や家族への不安
といった現代の管理職の“等身大の弱さ”をリアルに映している。
父と子、未来の自分への恐怖——ムッチ先輩の内面
ムッチが秋津に怯えるのは“怪異”ではなく、「自分が父になる未来」への怖さそのもの。
- 愛する人が消えた不安
- 家族を持つ責任
- 父親になる重さ
それらがコミカルに包まれながら、静かに提示される。
“笑いで殴る”のではなく、“笑いで問う”ドラマ
第8話の一番の魅力は、
「断罪」ではなく「問い」を残す 姿勢。
- 市郎の啖呵は“弱さの肯定”
- ムッチの混乱は“家族になることの重さ”
- 倉持の選択は“生き直す勇気”
- 栗田の揺らぎは“守りたい人の存在”
笑いながらも、視聴者に“断罪の快楽”を問い直させる構造が秀逸。
まとめ:第8話が残した問い
- “見ない自由”と“言わない自由”はどこで折り合いをつけるべきか?
- 私的な過ちと職業適性はどこまで連動させてよいのか?
- 赦す側の正義もまた暴走しないか?
昭和と令和、テレビとSNS、家と職場——
複数の境界を軽やかに行き来しながら、“生き直し”の条件を問いかける1話でした。
次回、ムッチと純子、市郎と秋津、栗田と倉持の関係はどこへ向かうのか。
第8話は、その“痛みを伴う折り合い”への確かな予告になっています。
不適切にもほどがある!の関連記事
次回の話についてはこちら↓

過去の話についてはこちら↓




コメント