第6話「昔話しちゃダメですか?」で、“語り継ぐこと”の価値を描いた『不適切にもほどがある!』。

続く第7話では、タイトル通り“回収”をめぐる物語が展開します。
昭和の少女・純子(河合優実)が令和で出会った美容師・ナオキ(岡田将生)との短い恋、ムッチ先輩(磯村勇斗)が未来=令和に降り立つ奇跡、そして“お断りテロップ”が3度も出るほどの令和的コンプラ演出――。
すべてのエピソードが、「全部を片付けなくても、人は前に進める」というテーマに収束していきます。
ここから、『不適切にもほどがある!』第7話のあらすじ・ネタバレ・感想・考察を詳しく紹介します。
不適切にもほどがある!(ふてほど)7話のあらすじ&ネタバレ

第7話の副題は「回収しなきゃダメですか?」。
昭和から令和へ飛び込んだ“ダメおやじ”小川市郎(阿部サダヲ)たちの物語は、ここで〈恋のリハーサル〉と〈時代のすれ違い〉を真正面から描きます。
軸は二つ。昭和17歳の小川純子(河合優実)が令和の美容師・ナオキ(岡田将生)と出会い、短くも鮮烈な恋に落ちるパート。
そして昭和側ではムッチ先輩(磯村勇斗)が未来の気配を察し、ついに令和へ降り立つパートです。
放送中に挟まる「お断りテロップ」や作中ドラマの会議シーンなど、メタ構造の笑いも冴え渡り、“ふてほど”らしい熱と知性の同居が光った回でした。
純子、原宿で令和デビュー——美容室で出会う“時代の恋”
渚(仲里依紗)に連れられて令和の街を歩く純子は、服を選び、美容室で髪を整えてもらう。
担当したのは優しく洒落た美容師・ナオキ(岡田将生)。軽やかな会話のテンポと距離の近さに、時代を超えた恋の予感が生まれる。
一方、渚は市郎&羽村(ファーストサマーウイカ)とリモート会議に参加。脚本家・エモケン(池田成志)の新作をどう“回収”するか議論しており、“物語のリハーサル”と“恋のリハーサル”が、画面の内外で対を成して進行していく。
デートの行方——江の島、学生証、そして“母です”の告白
純子とナオキのデートは、江の島の神社や海辺を巡る青春そのものの時間。
「大学合格祈願」の絵馬を掛けた帰り、ナオキが見つけた学生証がきっかけで、渚が真実を明かす。
「その人(純子)は、私の母です」。
常識を超えた設定にもかかわらず、ナオキは純子を“今の人”としてまっすぐに受け止め、短い恋の熱をさらに濃くしていく。
世代も時代も越えた“出会いの純度”が、この回を象徴していました。
“お断りテロップ”が鳴る——昭和的無邪気さと令和の配慮
レストランでワインの話題になり、純子が「ちょっともらう」と言った瞬間、画面に表示される“20歳未満の飲酒は法律で禁じられています”のテロップ。
これで7話中3度目となる「お断り」表示です。
昭和的軽さと令和の倫理がぶつかるたび、笑いとヒリつきが交互に生まれる。
本作が副題に掲げた「回収」は、“伏線回収”だけでなく“注意の回収”でもあることを示す、絶妙な皮肉でした。
スマホ紛失→支払い不能→留置場へ。フェンス越しのキス
デート帰り、ナオキがスマホを紛失し、キャッシュレス決済も連絡手段も失う。
支払いをめぐる誤解で揉め、純子は令和のルールと衝突。
結果、留置場に入れられてしまうという、時代錯誤な悲喜劇に発展します。しかしフェンス越しに交わすナオキとのキスが、彼女にとっての“自由”の瞬間となる。
短い恋が終わりを迎えても、心の中にだけ残る温もりが、昭和の恋愛ドラマを思わせる余韻を残しました。
昭和サイド:ムッチ先輩、ついに未来へ——“W秋津”の出会い
純子がいなくなった昭和では、ムッチ先輩が焦燥の中でサカエ(吉田羊)に詰め寄り、“タイムマシン”を求めて奔走。
最初は“ただのバス”に乗せられるドタバタで空振りに終わるものの、
終盤で本物の“時の扉”が開き、ムッチ先輩は令和へ。
そこで出会うのは、未来の息子・秋津真彦(磯村勇斗・一人二役)。親と子が同じ俳優で向き合うこの“W秋津”の構図が、物語の血脈を一気に可視化しました。
もうひとつの“回収”——エモケンの脚本とエゴサ地獄
令和サイドでは、市郎・渚・羽村が、エモケンの新作脚本をどう“回収”するか奮闘。
当の本人はSNSでの評価を逐一チェックして傷つき、スタッフも視聴者の声に振り回される。
作品と世論の距離、作り手の疲弊、そして「回収至上主義」への風刺が、この第7話の副題をもう一段深く意味づけていました。
結末:恋も物語も“全部は回収しない”という選択
純子の恋は儚く終わり、ナオキは“親御さんが迎えに来た”と去っていく。
しかし恋も痛みもすべてを回収しないまま残す――それが人生のリアルだと、ドラマは語る。ムッチ先輩の令和到達、エモケンの脚本未完、そして無数の“お断り”が積み重なる第7話は、「全部を片付けなくても、生きていける」というメッセージで幕を閉じました。
不適切にもほどがある!(ふてほど)7話の感想&考察

第7話は、昭和少女の“初恋”を正面から描きながら、“令和の規範”と“物語の回収癖”を同時に笑い飛ばした、シリーズ屈指の挑戦回でした。
昭和の情熱と令和の配慮をぶつけ合いながら、「全部を説明しなくても、届くものはある」という余白の美学を提示。ここでは、主要モチーフごとに深掘りします。
17歳の自由と、令和の“安全装置”のかたさ
純子は江の島での海風、神社の絵馬、カフェでの会話――そのすべてを“初恋のセットリスト”として一気に体験します。
注目すべきは、ナオキが“異常な設定”ではなく“いま目の前の彼女”を信じたこと。
渚が「その人は私の母」と明かしても、彼は関係の温度を下げなかった。だからこそ、留置場フェンス越しのキスという、ギリギリの倫理線上に立つクライマックスへ辿り着けたのです。
市郎の時代とは違い、“やってはいけないこと”の明示(お断りテロップ)が3度も表示される構成は、笑いの中に現代の倫理を埋め込む仕掛け。
恋も表現も、ルールと熱意の“せめぎ合い”でできていることを、コメディの体で示した見事な演出でした。
副題「回収しなきゃダメですか?」――人生は“未回収”の連続
このフレーズは、作中の脚本会議で語られる“作品のオチ”を指しながら、実は視聴者やSNS時代の文化全体に向けられています。
人は何でも“整理して終わらせたがる”。でも現実は、回収されない出来事の積み重ねでできている。
純子とナオキの恋は、結末を持たないからこそ真実味を帯び、エモケンの脚本会議やSNS炎上は、“回収至上主義”そのものへの風刺として機能していました。
さらに、最後にムッチ先輩を令和に放り込み、血縁と時間の線をあえて未解決のまま残す構成が痛快。
「終わらせないこと」こそが、今作における最大のメッセージです。
“牢屋のキス”が残したもの――許可と継承の物語
フェンス越しのキスは、恋愛行為ではなく“母への贈り物”です。
純子の恋を“未来の娘・渚”がそっと見守り、母の幸福を代理で用意する構図。この瞬間、恋は個人の感情を越え、世代をつなぐ“儀式”へと昇華します。
結末は回収されずとも、「確かにあった幸福」が残る――。第7話の“牢屋のキス”は、回収ではなく継承を描いた名場面でした。
ムッチ先輩の“令和入り”――記憶と血縁のスイッチ
ムッチ先輩(磯村勇斗)が未来=令和に現れ、自分の息子=秋津真彦(磯村勇斗・一人二役)と対面する“W秋津”の場面は、シリーズの構造を一気に拡張しました。
昭和の熱血と令和の理性が、同じ顔で出会う――このビジュアル自体が“記憶の血脈”の象徴です。
市郎にとっても、昭和の仲間と令和の同僚が一本の線で結ばれ、時間そのものが“家族”として立ち上がる。
ここからは「タイムトラベルの物理法則」よりも、「記憶と家族をどう維持するか」の心理劇へシフトしていくでしょう。
エモケンとエゴサ地獄――観る者も“回収”の共犯者
エモケン(池田成志)がSNSの反応に一喜一憂し、作品づくりの“回収地獄”に苦しむ姿は、視聴者にも突き刺さります。
コンテンツを見た瞬間に反応し、欠点を拾い、制作者へ“修正”を求める現代。
エモケンの苦悩は、私たちが作り手をどれだけ追い詰めているかの鏡でした。
それをコメディとして笑いに変えながら、宮藤官九郎は“視聴の共犯性”を問い直している。ドラマの内外がつながるこの仕掛けが、7話を単なる恋愛回に終わらせなかった理由です。
総括:回収しないことの美学
第7話は、“全部は片付かなくていい”という優しさで満たされていました。
- 純子とナオキの恋は、未完だからこそ残る。
- “お断り”テロップは、笑いと安全を両立する倫理装置。
- “W秋津”は、記憶と血縁を未来へつなぐ伏線。
- エモケンの炎上は、現代社会の“回収強迫”を映す鏡。
それぞれの物語が“回収未遂”のまま並ぶ構成は、「終わらない人生の肯定」としての“ふてほど”の哲学そのもの。
未回収こそが、生きていく力――第7話は、その真理を最もやわらかく伝える一編でした。
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