第3話で「タイムパラドックス」の警告が現実となり、小川市郎(阿部サダヲ)と渚(仲里依紗)の“越えてはいけない線”が示された『不適切にもほどがある!』。

続く第4話では、昭和と令和、それぞれの時代で「距離感」をめぐる騒動が巻き起こります。
スマホを手にした市郎が“既読スルー地獄”に落ち、純子(河合優実)は“誰にも見てもらえない孤独”を抱える。
そしてラスト、渚が市郎を連れて行った先で明かされる衝撃の一言——「お父さんですよね?」。
笑いと切なさ、時間と血縁が一点で交わる第4話のあらすじ・ネタバレ・感想考察を詳しく紹介します。
不適切にもほどがある!(ふてほど)4話のあらすじ&ネタバレ

第4話のテーマは「距離感」。
昭和から令和へ迷い込んだ小川市郎(阿部サダヲ)が、初めて“自分名義のスマホ”を持ったことで、他者との距離を詰めすぎ、既読スルーと炎上の不安に翻弄されていく。
一方1986年パートでは、純子(河合優実)が“見てもらえない孤独”に揺れ、ムッチ先輩(磯村勇斗)と雨の夜を駆け抜ける。
二つの時間が最後に“家族”という線でつながる、シリーズ屈指の感情回です。
導入:キスの瞬間に“バチバチ”――時間改変の警告
冒頭、市郎と渚(仲里依紗)がキスしようとした瞬間、二人の間に“バチッ”と電流が走り、物理的に弾き飛ばされる。
渚は井上(三宅弘城)の忠告――「過去を改ざんすれば未来が変わる」――を思い出し、二人の関係には踏み越えてはいけない線があると悟る。
ロマンティックな空気が一転して緊張に変わり、「恋」と「タイムパラドックス」が交差する導入となりました。
令和:スマホを得た市郎、“既読スルー地獄”へ
井上の手配でスマホを手に入れた市郎は、メッセージアプリに夢中。
思いつくまま連絡を送り続けるも返信がなく、焦りから追いLINEを連投。
職場では「小川のLINEが怖い」と噂になり、渚に“SNSの距離感”を叱られる羽目に。
中盤では、注釈テロップを交えたミュージカル仕立てで、「SNSは本気で打ち込むものじゃない」と歌い上げる名場面も登場。
昭和の“熱量”が、令和の“適切な距離”にぶつかる可笑しさが際立ちました。
1986年:すっぽかされた純子、雨の夜の“裸のムッチ先輩”
参考書を買う約束を破られ、傷ついた純子はムッチ先輩(磯村勇斗)のもとへ。
「誰も純子を見てくれない」と泣く彼女に、ムッチ先輩は「親父さんに心配かけるな」と声をかけるが、次の瞬間、白いブリーフ姿で仁王立ち――「体張って守る」という謎の愛情表現。
笑いを誘いつつも、“誰かに見てもらいたい”という純子の切実な願いを一瞬のコメディで掬い上げる、脚本の妙が光ります。
1986年:キヨシ、スマホも地図もなしに“会いに行く”
スマホも連絡手段もない中、「心配だから」という理由だけで純子を探し回るキヨシ(坂元愛登)。
雨の中を走り、ついに彼女を見つけて手を引く。
彼の“会いに行く愛情”は、令和で市郎が連投LINEを送り続ける姿と対照的。便利さの裏で失われた“直接の行動”を、昭和の情熱で照らしました。
令和:秋津の“正体”が判明――「父はムッチ先輩」
令和パートでは、市郎と行動を共にしてきた秋津(磯村勇斗)の正体が判明。
彼は昭和の“ムッチ先輩”=秋津睦実の息子・秋津真彦だった。
つまり“同じ俳優の一人二役”が血縁として回収され、物語の時間構造が一気に立体化。
また、秋津の母の名はメッセージで示されるが、視聴者には伏せられ、謎が次回へのフックとして残されます。
クライマックス:渚が連れて行く“父との対面”――涙の「お父さん」
終盤、渚は「父に会って」と市郎を連れ出す。
緊張の面持ちで対面した渚の父・犬島ゆずる(古田新太)は、市郎の顔を見るなり涙ぐみ「……お父さんですよね?」と呟く。
SNSでも「え?どういうこと?」「血縁図がバグった」と騒然。
ここで、“渚の母=純子”“市郎=渚の祖父”という可能性が一気に現実味を帯び、シリーズ最大の“時間のつながり”が姿を現します。
第4話は、笑いと切なさ、そして家族の線が一点で重なるエモーショナルなラストで幕を閉じました。
不適切にもほどがある!(ふてほど)4話の感想&考察

第4話は、昭和と令和の“距離感”を、コミュニケーションの方法と倫理観の両面から描き分けた構成が秀逸でした。
単に「昭和=情熱」「令和=冷静」という単純な対立ではなく、昭和でも暴力は暴力、令和でも行き過ぎた“善意”は暴力になり得るという、複層的な視点がしっかり整理されていました。
「既読スルー」×「会いに行く」――媒介の有無で変わる“侵襲性”
市郎の連投メッセージは、相手を思うあまり距離を詰めすぎる“圧”として働き、相手の余白を奪ってしまう。
一方で、キヨシはスマホも地図も持たず、雨の夜を“身体”で走って純子を探す。どちらも過剰な情熱という点では同じですが、前者は媒介(SNS)を通して相手の時間へ侵入し、後者は自分の時間を削って相手に向かう。
媒介の有無で“侵襲性”の質が変わるという構造が、非常に鮮やかに描かれていました。
ミュージカル「SNSは本気で打ち込むものじゃない」は、まるで“努力の方向を間違えるな”という現代への授業のように響きます。
“見てくれる人”の切実さ――白ブリーフの笑いと救い
ムッチ先輩の白ブリーフ姿は、単なるギャグではなく、“視線の倫理”を真っ向から撃ち抜く仕掛けでした。
「誰も純子を見てくれない」という嘆きに対し、「俺はお前しか見ていない」と身体で示す。それは性的なアピールではなく、“視線の片寄せ”によって生まれる安心の提示。
昭和の男が、言葉ではなく身体で伝える“承認の形”が、笑いとともに静かな救いとして胸に残りました。
秋津=ムッチ先輩の“息子”という配置――時間をつなぐ俳優の顔
磯村勇斗の一人二役は、第4話で“血の継続”として意味を帯びました。
昭和のムッチ先輩=秋津睦実と、令和の秋津真彦。同一俳優の顔を通して、過去と現在をつなぐ“時間の橋”が可視化され、「過去の選択が未来の誰かの行動を変える」という時間劇の本質を、俳優の存在で表現しています。
母の名が伏せられた演出も巧妙で、視聴者の考察を刺激する“遅延の快楽”として作用していました。
ラストの「お父さん」――血縁がピントを結ぶ瞬間
犬島ゆずるの「お父さんですよね?」という一言は、シリーズ最大の伏線回収でした。
渚の姓“犬島”、年齢と昭和時間の整合性、そしてゆずるの存在――それらが一瞬で繋がり、渚=純子の娘、市郎=渚の祖父という線が浮かび上がる。
この“血縁の顕在化”を、涙と微笑みで包み込むバランスが絶妙。
家族の線が立ち上がる瞬間、物語は恋愛から“時間を越えた親子の再会”へとシフトしました。
第4話が描いた「線」――恋、時間、距離の交差点
関係の線:タイムパラドックスの“バチバチ”は、恋の倫理を物理で可視化。越えてはいけない線を提示。
コミュニケーションの線:SNSは“努力の場”ではなく、余白を残す装置。歌で笑いながら教える距離のマナー。
時間の線:昭和と令和を同じ俳優の顔で縫い、血と記憶をつなぐ。
物語の線:ラストの「お父さん」で、点と点が円になる。“遠回りしていた家族”の物語が核心へ進む。
注釈テロップと観客の“共有距離”
第4話では注釈テロップが増え、現代特有の“説明過多”を逆手に取ったユーモアが冴えました。
説明の押しつけではなく、作品と観客の間に軽い距離を保つ“共有の笑い”。このメタ演出が、SNS世代の共感を生む要因にもなっています。
総括
「距離感」は、恋にも家族にも、そしてコミュニケーションにも等しく必要な基礎体力。
第4話は、昭和の“体温”と令和の“注意書き”の狭間で、そのバランスを描き切りました。
昭和の直球は、令和では暴力になる。けれど令和の過剰な配慮も、人を“見えなくする”暴力になる。雨の夜を走るキヨシ、“見てるよ”と身体で示すムッチ先輩、そして“距離を取る”ことを歌う渚――それぞれの線の引き方が、最後に「お父さん」という一点で美しく結ばれる。
第4話は、笑いと倫理と血のドラマを一本の線で通した、見事な“中盤のピーク”でした。
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