第1話は、台風という偶然が三つの世帯をひとつの食卓に集めるところから始まる。
東京郊外のマンション「たそがれステイツ」に暮らす人々は、年齢も生き方も異なる“他人同士”。だが、その夜だけは同じ屋根の下で、湯気と笑いと沈黙を分かち合う。
そして、嵐が去った朝——妻・あんが告げた「約束はまだ生きている」という言葉が、家族の風景を一変させる。静かな夜に生まれたその“約束”こそ、このドラマの物語を動かす最初の灯だった。
ここからは「小さい頃は、神様がいて」のあらすじ&ネタバレ&感想を紹介します。
「小さい頃は、神様がいて」1話のあらすじ&ネタバレ

台風の夜に“約束”が動き出す
第1話は、東京郊外のレトロな三階建てマンション「たそがれステイツ」を舞台に、そこで暮らす三世帯を一つの家へ集める“偶然の儀式”から始まる。
台風接近という非日常をきっかけに、三階に住む小倉家の20年前の“夫婦の約束”が静かに目を覚ます。
終盤、妻・あん(仲間由紀恵)が「その約束はまだ生きている」と告げた瞬間、日常の温もりは一瞬にして凍りつく。
笑いと優しさの中に潜む決意——その静かな緊張が、第1話を貫くテーマとなっている。
「たそがれステイツ」の住人たち——同じ屋根の下に違う季節
1階は、永島慎一(草刈正雄)と妻・さとこ(阿川佐和子)の熟年夫婦。
過去に家庭を顧みなかった負い目を抱える慎一が、家事や地域活動に精を出し、さとこは穏やかにそれを支える。
2階は、社交的な樋口奈央(小野花梨)と内気な高村志保(石井杏奈)の女性カップル。
家具の少ない部屋でキャンプ用テントに寝る“身軽な暮らし”は、現代的で自由な愛の形そのものだ。そして3階には、小倉渉(北村有起哉)、あん(仲間由紀恵)、娘・ゆず(近藤華)の3人が暮らす。
長男・順(小瀧望)は消防士として家を出ており、家族の温度に少し距離がある。世代も価値観も異なる三世帯が同居することで、「家」という多層的な時間が物語の奥行きを生んでいる。
小倉夫妻の始まり——“合格の抱擁”と“反射のビンタ”
回想では、若かりし頃の渉とあんの出会いが描かれる。
第一志望に合格して喜んだ渉が、滑り止めに受かったあんを抱きしめた瞬間、あんが反射的に頬を打つ——それが2人の始まりだった。
就職、結婚、妊娠、退職……。20年の月日を経て、小倉家は一見平穏に見えるが、渉が信じる「平穏」は、妻にとって“積み重ねた決意”の上に成り立っていた。
台風の夜——“みんなで夜を越す”共同体の始まり
台風が接近する中、1階の慎一が氾濫防止のため水嚢を積む。通りがかった渉も自然に手を貸し、彼の提案で「今夜は小倉家に集まりましょう」と貼り紙を出す。
2階の奈央と志保は迷いながらも3階へ。
初対面のぎこちなさを抱えつつ、自己紹介を交わし、志保の手料理を囲んで一夜を共に過ごす。外の風雨と対照的に、食卓の温もりが描かれる。
見知らぬ隣人たちが“共に過ごす夜”を経験することで、ここに小さな共同体が生まれた。
朝の冗談と夜の告白——20年越しの約束が蘇る
翌朝、渉は冗談めかして「子どもが二十歳になったら離婚するなんて言ってたな」と笑う。
ところがその夜、あんは真剣な面持ちで告げる——「あの約束は生きている」。
彼女は“そのつもりで20年を歩んできた”と語り、家族の未来を見据えた別れの意志を静かに示す。その言葉は、外からの台風よりも強く、家族の心を揺らす。
“他人が見守る家族”という岡田惠和の構図
1階の熟年夫婦は「過去の償い」を、2階の若いカップルは「今を生きる自由」を、3階の小倉家は「過去との決着」を描く。
それぞれ異なる季節を生きる三世帯が、家族の危機を見守り合う構図こそ、脚本家・岡田惠和の得意とする人間ドラマの核心だ。
第1話は、台風の夜という偶然から“共同体の序章”を生み出し、ここから「約束をどう扱うか」という物語の主題が静かに立ち上がった。
「小さい頃は、神様がいて」1話の感想&考察

第1話を見終えて印象に残ったのは、台風が“場”をつくり、食卓が“関係”をつなぎ、約束が“物語”を始動させたという、極めて論理的な構成だったということ。
偶然に見える自然現象(台風)で人々を一つの家に集め、家族の事情を“家族ではない目”にも晒す。
クローズドサークルではなく、“オープンな密室”。この舞台設定があるからこそ、あんの告白は独白ではなく共同体への宣言として響く。
“見られた”告白は、登場人物も視聴者も巻き込み、次回以降の当事者へと変えてしまう。
タイトルの力学——“神様”は、子どもの記憶ではなく“場の手触り”に宿る
『小さい頃は、神様がいて』というタイトルは、郷愁の回想に収まると思いきや、もっと現実的な感触を持っていた。
第1話では、台風の夜に人が集まり、手料理を分け合い、気まずさが笑いへと変わる——その過程にこそ、“見えない何かに守られている感触”が生まれている。
神様とは、過去にいる存在ではなく、いま・ここで生まれる“気配”なのだ。
主題歌『天までとどけ』、そして劇中で流れた『やさしさに包まれたなら』が、その構造を音楽で補強する。過去の祈りが現在の台所まで届く——ドラマと音楽が同じ方向を見ている。
「約束」を“罰”ではなく“更新”として描く
“子どもが二十歳になったら離婚する”という強烈なフレーズは、安易に使えば物語を一方的にしてしまう。
だが第1話では、渉が無邪気に“過去形”で笑ってしまう「うっかり」を置き、あんが夜に“現在形”で言い直す。
この対比により、同じ20年を違う言葉で生きた二人の差が浮かぶ。
あんが約束を“生かし続けた”のは、相手を罰するためではなく、自分を誤魔化さないため。
だから彼女の決意は“破壊”ではなく“更新”に近い。岡田惠和脚本の得意とする“やさしい決別”の予感があった。
三世帯の“時間差”がアンサンブルを豊かにする
1階の慎一とさとこの“熟年の現在”、2階の奈央と志保の“軽やかな現在”、3階の小倉家の“過去に縛られた現在”。
同じ“いま”を生きながら、風速の異なる3つの時間が一つの建物に同居している。
特に、2階の家具のない部屋にテントを張って寝るという描写は、住まいを“永住”ではなく“通過点”として描き、家族のあり方を更新している。
この“軽さ”が、1階の“積み重ね”と3階の“重み”に反射して、物語に奥行きを与えていた。
“水嚢→貼り紙→食卓”という三段構成の演出
水嚢を積む(防災)→貼り紙を出す(呼びかけ)→食卓を囲む(共生)。
この三段階が機能として美しく連鎖している。
気まずさから笑いへの変化が段階的に描かれ、ラストの“告白”が不意打ちではなく、段取りの果てに生まれた必然として着地する。
“集める”を丁寧に描いたからこそ、個人の言葉が共同体の出来事に変わった。台風という自然現象を“キャラクター”のように使い切った演出でもある。
男性像のアップデート——渉と慎一、二つの“やさしさ”
渉は「よかれ」と思って動く人だ。貼り紙を出し、皆を集める発想ができる優しさの人。
だが、言葉の重みを忘れる軽さが致命傷になりかけている。対して1階の慎一は、やり過ぎる優しさで空回りもするが、やり直しを恐れない人。
この二つの優しさが上下の階に配置されているのは巧妙だ。今後、慎一の姿勢が渉に“成熟した優しさ”を教え、あんが少しだけ休める場になるだろう。
結末と次回への射程
第1話は、“言いっぱなし”では終わらない。
あんの宣言は、三世帯の目撃を得た“公開の約束”として残った。公開性は、当人を追い込むと同時に、支える土台にもなる。
この構造があるからこそ、2話以降は“小倉家の問題”が“建物全体の課題”へとスケールアップする。離婚する・しないの二択ではなく、“どう生き直すか”という問いへ進むはずだ。
台風で人を集め、食卓で混ぜ、言葉で区切る——1話はその導線を過不足なく描き切った。
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