ドラマ『ラムネモンキー』第3話「恐怖!地獄の番人ジェイソン」では、藤巻肇が映画監督として行き詰まった理由と、少年時代に映画を作り始めた原点が重ねて描かれます。
現在の肇は仕事も金も失いかけ、自分が本当に撮りたいものではなく、流行しそうな要素を並べた企画へすがっていました。その一方で、1988年の記憶には、チェーンソーを持った体育教師・江藤がマチルダを襲う、ホラー映画のような光景が残っています。
ただし、その記憶を作ったのは江藤への恐怖だけではありません。脚本を否定された屈辱や、自分の才能を認めてもらえなかった怒りが、江藤を「創作を邪魔する怪物」へ変えていた可能性が浮かび上がります。
第3話で修正されるのは、マチルダ殺害をめぐる記憶だけではなく、肇が批評される恐怖に支配されてきた現在の生き方です。
この記事では、ドラマ『ラムネモンキー』第3話のあらすじ&ネタバレ、伏線、感想と考察について詳しく紹介します。
ドラマ「ラムネモンキー」第3話のあらすじ&ネタバレ

前話では、吉井雄太が大葉灯里をマチルダ殺害犯だと思い込んでいた記憶が修正されました。刀を使った灯里とマチルダの決闘は映画の撮影であり、灯里は犯人ではありません。
しかし灯里は撮影とは別の場面で女性の悲鳴を聞き、うずくまるマチルダの近くから男が立ち去るところを目撃していました。また、肇が保管していた映画研究部のビデオテープは、13本あるはずの中からNo.12だけがなくなっています。
第3話では、雄太、肇、菊原紀介が灯里の証言を警察へ伝える一方、仕事を失いかけた肇の現在が掘り下げられます。マチルダを襲ったのは体育教師の江藤だったという新たな記憶が浮かびますが、そこにも肇自身の恐怖と屈辱が映画的な形で混ざっていました。
灯里の目撃証言を伝えても警察は動けない
雄太たちは、灯里が目撃したマチルダと正体不明の男について、鶴見巡査へ改めて報告します。3人にとっては事件性を裏づける重要な証言ですが、37年前の曖昧な記憶だけでは、警察を動かす決定的な証拠にはなりません。
灯里が見た男を鶴見巡査へ報告する3人
灯里を犯人だとする雄太の記憶は間違っていましたが、彼女の証言によって新しい事実が浮かびました。灯里は当時、女性の悲鳴を聞いて振り返り、うずくまるマチルダと、その近くにいた男を見ています。
男は灯里の存在に気づくと立ち去りました。何をしていたのか、マチルダとの間に何があったのかまでは分かりませんが、少なくとも失踪前後にマチルダの近くへ第三者がいた可能性が出てきます。
雄太、肇、紀介は、この証言によってマチルダ失踪が事件だった可能性が高まったと考え、丹辺警察署を訪れます。人骨発見現場から見つかったマチルダと同型のボールペンに加え、今度は当時の目撃者まで現れたため、警察も無視できないはずだという期待がありました。
しかし、灯里の証言は37年前の記憶です。男の顔や名前、マチルダとの関係も特定されておらず、悲鳴が何を意味していたのかも分かっていません。
雄太たちには大きな前進でも、捜査機関が動くための客観的な情報としては足りない状態でした。
鶴見が困惑したのは事件を軽く見ているからではない
鶴見は、雄太たちの話をすぐ殺人事件として扱うことができません。発見された人骨の身元は判明しておらず、ボールペンがマチルダ本人の所有物だったことも確認されていないからです。
さらに、灯里が見た男についても、現場にいたという証言以上の情報はありません。男がマチルダへ危害を加えたのか、助けようとしていたのか、偶然近くにいただけなのかも判断できません。
雄太たちは、警察がまた自分たちを相手にしてくれないと苛立ちます。恩師が殺されたかもしれないという焦りを抱える3人にとって、慎重な対応は無関心のように感じられるのでしょう。
ただし、鶴見の困惑には理由があります。雄太たちの記憶は、前話で灯里を犯人とする部分が訂正されたばかりです。
本人たちが強く信じている記憶でも事実と異なる可能性がある以上、警察としては一つずつ裏づけを取らなければなりません。
記憶の誤りを認めることは事件へ近づく一歩ですが、誤りを訂正しただけでは法的な証拠にはなりません。
警察に頼れない3人が当時の人物を洗い直す
警察をすぐ動かすことができないと分かった雄太たちは、自分たちで1988年の人間関係を調べ直すことにします。灯里の証言に出てきた男を探すには、当時マチルダと関わっていた人物を一人ずつ確認する必要があります。
白馬も引き続き調査へ参加します。雄太、肇、紀介は同じ記憶を共有しているため、互いの思い込みを補強してしまう危険がありますが、当時を知らない白馬は、3人の証言を外側から整理できます。
前話では、白馬のSNSを通じて元同級生の石井洋子や大葉灯里とつながりました。第3話でも、3人が覚えている人物だけに頼らず、学校関係者や当時を知る人間の証言を集めることが重要になります。
その過程で肇が思い出すのが、体育教師の江藤です。厳しく、体罰も辞さない教師だった江藤は、生徒たちから恐れられ、「ジェイソン」と呼ばれていました。
肇の記憶の中には、その江藤がチェーンソーを持ち、マチルダを襲ったかのような光景が残っています。しかし灯里の一件を経験した直後だからこそ、江藤を犯人だと決めつける前に、記憶のどこまでが事実なのかを確かめなければなりません。
仕事も金も失った肇が流行へすがる
マチルダ失踪事件を追う一方、肇の現在の生活は深刻な状態にありました。監督の仕事を外され、借金を抱えた肇は、映画を作りたいという思いより、まず企画を通して生き残ることを優先し始めます。
監督の仕事を失った肇に借金が重くのしかかる
肇は映画監督という少年時代からの夢をかなえました。しかし第1話では、自分が持ち込んだ企画でありながら、周囲への攻撃的な態度や強すぎるこだわりによって監督を外されています。
その後も状況は好転せず、肇は仕事と収入を失い、借金を抱える状態へ追い込まれます。映画を撮れないことは創作者として苦しいだけでなく、日々の生活を維持できないという現実的な問題にもつながっていました。
肇は、自分の才能がなくなったとは認めたくありません。仕事が減ったのは周囲が理解しないからであり、現場が自分の表現についてこられないからだと考えることで、自尊心を守ろうとします。
しかし、企画が通らず、監督として呼ばれない状況が続けば、「自分はもう必要とされていないのではないか」という不安を無視できなくなります。肇の攻撃性は自信の表れではなく、才能が枯れたと判断されることへの恐怖を覆い隠すものになっていました。
売れそうな要素を詰め込んだ企画で再起を狙う
追い詰められた肇は、現在流行している要素を企画へ次々と詰め込みます。そこにあるのは、自分が心から撮りたい物語ではなく、今なら受け入れられそうなものを組み合わせれば仕事につながるという発想でした。
市場や観客を意識すること自体は、仕事として映画を作る以上、間違いではありません。監督一人の好みだけで作品が成立するわけではなく、予算や視聴者、制作側の意向を考える必要もあります。
ただ、現在の肇は、他人の意見を受け入れながら自分の表現を磨こうとしているわけではありません。批判されることを避けるため、最初から評価されやすそうな材料を並べ、自分が本当に作りたいものを隠しています。
肇は周囲から口を出されることを嫌いながら、誰よりも周囲の評価に依存していました。自分の感性を守ると主張しながら、企画を通すためには流行へ迎合する。
その矛盾こそ、現在の肇が創作者として動けなくなった理由です。
批評を拒絶し続けた肇は、いつの間にか自分の作りたいものではなく、批評されにくいものを作ろうとしていました。
安定した元同僚への見下しに肇の嫉妬が表れる
かつての仕事仲間と再会した肇は、現在の相手の立場や仕事ぶりを素直に認めることができません。自分より安定した場所で働いている相手を見て、その仕事を低く評価するような態度を取ります。
肇にとって、同じ業界で生きてきた相手の安定は、自分が取り残されていることを突きつけるものです。相手が成功していると認めれば、自分が監督として行き詰まっている事実も認めなければなりません。
そのため、相手の仕事には創造性が足りない、妥協していると考えることで、自分の方が表現者として上だという位置を守ろうとします。しかし、現在の肇自身も流行を並べた企画へすがっているため、その批判は自分へ返ってきます。
肇が抱いているのは、相手への純粋な軽蔑ではなく嫉妬です。自分も仕事を続けたい、作品を完成させたい、必要とされたいという気持ちがあるからこそ、安定して制作へ関わっている相手を素直に見られません。
小野寺さつきも、肇が追い詰められていることを理解しながら、流行を並べただけの企画で再起できるとは考えていないように見えます。肇が戻るべきなのは、かつて評価された作風ではなく、評価される前から映画を撮りたいと思っていた自分です。
肇が恐れていたのは仕事の消失より才能の否定
仕事がなくなれば収入も減り、借金の問題も深刻になります。それでも、肇の焦りを最も強くしているのは、経済的な危機だけではありません。
自分にはもう新しいものを生み出す力がないと、周囲にも自分自身にも認めることを恐れています。
肇は批評されると、作品の一部を否定されたのではなく、自分の存在全体を否定されたように受け取ります。そのため、批判した相手の感性や能力を攻撃し、自分が傷つかない位置へ逃げようとします。
しかし、その方法を続けるほど、誰も肇へ意見を言えなくなります。意見を交わせない現場では作品を共同で作ることができず、結果として肇は監督の場所そのものを失っていました。
現在の創作不振は、才能が完全になくなったからではなく、批判を受けながら作り続ける力を失ったことから生じているように見えます。その事実へ近づくため、物語は肇が初めて映画を作ろうとした1988年へ戻ります。
映画研究部とカンフー映画が始まった日
現在の肇は評価ばかりを気にしていますが、中学生だったころの彼は、誰かに認められる前から映画を作ろうとしていました。ビデオカメラを手にした喜びと、頭の中の物語を映像へ変えたいという衝動が、映画研究部の始まりとなります。
ビデオカメラを手にした肇が脚本を書き始める
1988年、中学生の肇はビデオカメラを手に入れます。現在のように誰もが簡単に映像を撮れる時代ではなく、自分たちで映画を作れる機材を手にしたことは、肇にとって大きな出来事でした。
肇はカンフー映画を撮ろうと考え、自分で脚本を書き始めます。企画が市場に合うか、誰に評価されるか、仕事につながるかといった計算はありません。
見た映画から受け取った興奮を、自分なりの物語へ変えてみたいという思いが先にあります。
もちろん、中学生の肇が書いた脚本は完成されたものではありません。好きな作品の影響を強く受け、現実には難しい場面も含まれていたと考えられます。
それでも、未熟であることは作らない理由にはなりませんでした。
現在の肇は、企画が批判されることを恐れ、通りやすそうな要素を集めています。一方、少年時代の肇は、自分が面白いと思った世界をどうすれば撮れるのかだけを考えていました。
二つの姿を比べることで、現在の肇が失ったものが技術や経験ではないことが分かります。
雄太と紀介を誘って映画研究部が生まれる
肇は一人で頭の中の物語を抱えるだけではなく、雄太と紀介を巻き込みます。野球部を離れて居場所を失っていた雄太と、二人の間をつないでいた紀介にとっても、映画作りは学校の中に新しい居場所を作る機会となりました。
肇は監督や脚本を担い、自分の想像した世界を二人へ説明します。雄太と紀介も、最初からすべてを理解していたわけではありませんが、撮影へ参加することで、三人だけの関係が形になっていきます。
映画研究部は、完成された才能を持つ者が集まった場所ではありません。野球部でつまずいた雄太、映画への情熱を持て余す肇、周囲へ合わせがちな紀介が、それぞれ現実とは違う役を演じられる場所でした。
三人にとって映画は、日常から逃げるだけのものではありません。言葉にできない苛立ちや憧れを物語へ変え、自分たちがなりたい人物を試す方法でもあります。
肇にとっては、自分の想像を他人と共有し、現実の映像へ変える最初の創作体験でした。
マチルダがユン、チェン、キンポーという役名を与える
臨時教師の宮下未散、通称マチルダは、三人が映画を作ろうとしていることを否定しません。未熟な遊びとして片づけるのではなく、自分たちで作品を作るよう背中を押します。
マチルダは三人に、映画の中の役名で呼び合うことを提案します。雄太はユン、肇はチェン、紀介はキンポーとなり、現実の学校生活とは別の関係が作られていきました。
役名を持つことで、三人は普段の自分から一度離れられます。雄太は野球部で居場所を失った少年ではなくなり、肇は周囲から理解されない映画好きではなくなり、紀介も二人の間を取り持つだけの人物ではなくなります。
現在の雄太、肇、紀介が37年ぶりに再会したとき、昔の呼び名によって距離を縮められたのは、この時期に肩書のない自分同士でつながった経験があるからです。マチルダは映画作りを勧めただけでなく、三人が互いを別の可能性で見られる場所を作っていました。
評価される前から作りたかった肇の純粋な喜び
少年時代の肇は、自分の脚本が優れていると証明したいから映画を始めたわけではありません。自分の頭の中にある場面を撮りたいという衝動があり、そのために仲間を集め、カメラを動かしています。
撮影がうまくいかなくても、予算がなくても、演技が未熟でも、それらは映画をやめる理由にはなりませんでした。問題が起きれば、三人で別の方法を考えればよかったからです。
現在の肇は、作品を世に出す前から、評価されるか、売れるか、自分の才能を証明できるかを考えています。映画を作ることが目的ではなく、映画によって自分の価値を確認することが目的へ変わっていました。
肇が少年時代に持っていたのは成功への確信ではなく、失敗しても撮ってみたいと思える創作への衝動でした。
その喜びが失われた背景には、江藤から受けた強い否定の記憶があります。肇は、自分の脚本を認めなかった江藤を、やがてホラー映画の怪物のように思い出すようになります。
ジェイソンこと江藤がマチルダを殺した?
肇の記憶に現れる江藤は、チェーンソーを手にした恐ろしい教師です。生徒への厳しい態度と、肇の脚本を否定した記憶が重なり、江藤がマチルダを襲ったというホラー映画のような映像が作られていました。
体罰も辞さない体育教師・江藤への恐怖
1988年当時、体育教師の江藤は生徒たちから恐れられていました。厳しい指導だけでなく、体罰も辞さないような態度があり、その存在は学校内で強い緊張を生んでいます。
生徒たちは江藤を「ジェイソン」と呼びました。ホラー映画に登場する怪物の名前を与えることで、江藤への恐怖を仲間内の物語へ変え、扱いやすくしていた面もあるのでしょう。
ただし、体罰的な指導をしていたことと、マチルダを殺害したことは別の問題です。江藤が生徒へ恐怖を与えた教師だったとしても、それだけで失踪事件の犯人だと決めつけることはできません。
肇の記憶では、この二つが強く結びついていました。自分を傷つけた怖い教師なら、マチルダへも危害を加えたはずだという物語が作られ、江藤は現実の教師から映画の怪物へ変化していきます。
脚本を否定された屈辱が肇の中に残り続ける
江藤は、肇が書いた脚本や映画研究部の活動へ否定的な態度を取ります。具体的にどのような言葉を使ったのかは断定できませんが、肇は自分の創作を侮辱されたという強い屈辱を抱きました。
肇にとって脚本は、ただの紙ではありません。初めて自分の想像を他人へ見せる形にしたものであり、将来映画監督になりたいという夢の出発点です。
その脚本を否定されることは、未熟な部分を指摘される以上の痛みを持っていました。肇は、作品ではなく自分自身を否定されたと感じたのでしょう。
現在の肇が批評へ過剰に反応する姿にも、この傷が残っています。意見を受けたとき、内容を検討する前に、また江藤のように自分を潰そうとしていると感じてしまう。
その防衛反応が、周囲を攻撃する現在の態度につながっていました。
チェーンソーを持つ江藤がマチルダを襲う記憶
肇の中には、江藤がチェーンソーを持ってマチルダへ迫るような記憶があります。江藤の恐ろしい表情、危険な道具、マチルダを守らなければならない状況が、ホラー映画の一場面として構成されていました。
この映像だけを見れば、江藤がマチルダを襲い、失踪へ関わったように感じられます。肇も、江藤がマチルダ殺害犯なのではないかと疑いを強めます。
しかし、その記憶は現実としては不自然です。学校内で教師がチェーンソーを使って別の教師を襲ったのであれば、多くの証拠や目撃者が残るはずです。
肇自身も、場面の始まりから終わりまでを明確には説明できません。
前話の雄太は、映画撮影の刀の決闘とマチルダ失踪を結びつけ、灯里を悪役にしていました。今回は肇が、江藤への恐怖と脚本を否定された記憶を、チェーンソー殺人のような映像へ変えています。
肇は、自分の創作を否定した江藤を、現実の教師ではなく物語の中で倒すべき怪物として記憶していました。
江藤を犯人と疑うことで肇が守ろうとしたもの
肇が江藤を犯人だと考えれば、江藤から受けた否定をまともに受け止めずに済みます。自分の才能を見抜けなかった人物ではなく、そもそも悪意を持つ怪物だったと考えれば、その批評には耳を傾ける価値がないからです。
この考え方は、現在の肇にも残っています。企画へ批判を受けたとき、内容を見直すより、批判した人物の感性が劣っていると考えます。
相手を間違った側へ置けば、自分の作品や態度を変える必要がありません。
ただし、江藤の体罰的な指導や、少年の創作を傷つける言動まで正当化する必要はありません。江藤が教師として問題のある人物だった可能性と、マチルダ殺害犯ではない可能性は両立します。
肇が向き合うべきなのは、江藤を許すかどうかだけではなく、江藤への怒りを創作できない理由として使い続けてきた自分です。その答えを確かめるため、雄太、肇、紀介は現在の江藤を探し、病院で対面します。
江藤との再会でチェーンソーの記憶が崩れる
病院で再会した江藤は、肇の記憶にある不死身の怪物ではなく、年老いて弱った一人の人間でした。肇は過去の体罰や脚本への侮辱を問いただしますが、怒りを向けるだけでは失った時間を取り戻せません。
病院にいた江藤は記憶の怪物とは違っていた
雄太、肇、紀介が病院で目にした江藤は、1988年の記憶とは大きく異なる姿でした。かつて生徒たちを恐れさせた体育教師も年齢を重ね、身体的には弱っています。
一方で、江藤の厳しい性格が完全に消えたわけではありません。肇たちに対する態度にも、相手へ簡単に歩み寄ろうとしない頑固さが残っています。
そのため、肇は現在の江藤を見ても、過去の怒りをすぐ手放すことができません。自分の脚本を侮辱し、映画研究部の活動を脅かした人物として、長年抱えてきた不満をぶつけようとします。
しかし、目の前にいるのはチェーンソーを持つ怪物ではなく、弱った老人です。記憶の中では巨大だった相手が現実の人間へ戻ったことで、肇は怒りをどこへ向ければよいのか分からなくなります。
肇が過去の体罰と脚本への侮辱を問いただす
肇は、江藤が生徒へ恐怖を与えていたことや、自分の脚本を否定したことへ向き合おうとします。江藤の側が当時の言動をどのように捉えているかにかかわらず、肇が傷ついた事実は消えません。
創作を始めたばかりの少年にとって、大人の教師から受けた否定は大きな影響を持ちます。肇はその後、映画監督になる夢をかなえましたが、批判されるたびに江藤へ否定されたときと同じ痛みを感じてきたように見えます。
だからこそ、肇は江藤に自分の成功を認めさせたい気持ちも抱いていたのでしょう。映画監督になった自分を見せ、あのとき否定した判断は間違っていたと認めさせれば、少年時代の傷が消えると考えていた可能性があります。
ところが現在の肇は、監督を外され、仕事も金も失いかけています。誇れる成功だけを持って江藤の前へ立てない今、肇は自分がまだ江藤の評価に縛られていることを突きつけられます。
職員室へ忍び込んだ肇と庭仕事用のチェーンソー
江藤との対面を通して、肇の記憶は少しずつ現実の形へ戻ります。1988年、肇は映画研究部のノートを取り戻すため、職員室へ忍び込んでいました。
そこで江藤と出くわします。江藤は確かにチェーンソーを持っていましたが、それはマチルダを襲うための凶器ではなく、庭仕事に使っていたものでした。
肇は、江藤の姿を見た恐怖と、ノートを取り戻そうとして見つかった焦りを、ホラー映画の場面として記憶していました。江藤がチェーンソーを持っていた事実は残りながら、その目的と状況だけが別の物語へ変わっていたのです。
前話の灯里と同じように、誤った記憶にも現実の断片は含まれています。チェーンソーそのものは存在し、江藤への恐怖も本物でした。
しかし、江藤がマチルダを殺したという結論は、肇の感情によって付け足されたものです。
江藤はマチルダをチェーンソーで殺しておらず、肇の記憶は恐怖と屈辱をホラー映画へ変えたものでした。
マチルダが肇と江藤の間へ入り込む
職員室で江藤と向き合うことになった肇の間へ、マチルダが入ります。彼女は肇を一方的にかばって江藤を悪人扱いするのではなく、肇自身が今後どちらの側に立つのかを考えさせます。
作品を批評する側にいれば、自分が失敗する危険はありません。他人の脚本や演出の欠点を指摘するだけなら、自分の作品を世に出して評価される必要がないからです。
一方、作る側へ進めば、批判を避けることはできません。自分が大切にしたものを否定され、失敗作と呼ばれ、それでも次を作る責任を引き受けなければなりません。
マチルダが肇へ示したのは、批評を無視して好き勝手に作ればよいという考えではありません。批判を受ける苦しさを引き受けたうえで、それでも作る側へ立つのかという選択です。
現在の肇は、その覚悟を失っていました。批判されると相手を攻撃し、自分の作品を守るために周囲を遠ざけています。
創作者であり続けたいと言いながら、批評されない安全な場所へ逃げようとしていたのです。
肇が江藤の言葉に人生を支配されていたと気づく
肇は長年、自分が江藤に反発しながら映画監督になったと考えていたのでしょう。江藤に否定されても夢をかなえたのだから、自分は勝ったと思いたかったはずです。
しかし、批判されるたびに江藤への怒りを再現し、相手を敵と考えてきたのであれば、肇の人生は今も江藤の言葉に支配されています。反発しているようで、判断の基準を江藤へ預け続けていたことになります。
江藤を怪物として記憶すれば、自分は傷つけられた少年のままでいられます。現在の仕事がうまくいかない理由も、理解のない批評者や業界へ移すことができます。
けれども、記憶が修正されたことで、その説明は使えなくなりました。江藤が問題のある教師だったことと、現在の肇が周囲を遠ざけたことは別です。
肇はようやく、自分の創作不振を自分の選択として見直し始めます。
肇が乗り越えるべき相手は年老いた江藤ではなく、批判されるたびに作ることをやめようとする現在の自分でした。
ラムネ瓶が肇を創作者の原点へ戻す
チェーンソーの記憶を修正した肇は、少年時代に作ろうとした映画の細部まで思い出します。大人の映画をまねた酒瓶がラムネ瓶へ変わり、『ラムネモンキー 炭酸拳』という三人だけの作品が生まれていました。
酒瓶の小道具がラムネ瓶へ変わった理由
少年時代の肇は、自分が好きだった映画の格好よさを再現しようとしていました。その中には、酒瓶を小道具として使うような案も含まれています。
しかし、中学生の三人が大人の映画をそのまままねても、自分たちの作品にはなりません。そこで酒瓶の代わりに使われたのが、少年たちに身近なラムネ瓶でした。
ラムネ瓶への変更は、予算や年齢による単なる妥協にも見えます。ところが、まねしようとしたものを自分たちにできる形へ変えたことで、映画には三人だけの個性が生まれました。
肇が現在作っていた流行要素だらけの企画は、他人の成功を集めたものです。少年時代も好きな映画の影響は受けていましたが、ラムネ瓶のように自分たちの現実へ置き換える工夫がありました。
創作は、誰の影響も受けない完全な独創から始まるわけではありません。憧れた作品をまねながら、自分たちの環境や感情に合わせて変えることで、初めてその人の作品になります。
『ラムネモンキー 炭酸拳』という作品名の原型
ラムネ瓶を小道具に取り入れたことで、三人のカンフー映画には『ラムネモンキー 炭酸拳』という名前の原型が生まれます。作品名には、少年たちが好きだった映画の影響と、自分たちの日常が混ざっています。
「ラムネモンキー」という言葉は、完璧に洗練されたタイトルではないかもしれません。しかし、肇、雄太、紀介が同じ場所で笑いながら考えた、自分たちだけの名前です。
現在の肇は、企画を通すために流行の言葉や人気の型を使おうとしていました。そこには売れる可能性はあっても、なぜ肇がその作品を作りたいのかという理由がありません。
一方、『ラムネモンキー 炭酸拳』には、三人が映画を作った時間そのものが入っています。肇にとって必要だったのは、過去の作品をそのまま再現することではなく、自分が作品名を考えるだけで楽しかった感覚を思い出すことでした。
ラムネ瓶は、大人の映画をまねるだけだった三人が、自分たちの現実から物語を作り始めた象徴です。
肇が三人の映画研究部を題材に企画を作る
少年時代の記憶を取り戻した肇は、現在の自分が本当に書くべき企画へ向き合います。流行しそうな要素を詰め込むのではなく、雄太、紀介と映画を作った時間を題材にした企画です。
これは、懐かしい思い出をそのまま作品にするという意味だけではありません。現在の三人は、マチルダ失踪の謎を追いながら、自分たちの記憶がどれほど書き換えられていたのかを確かめています。
肇にとって、その過程そのものが、今の自分にしか書けない物語です。51歳になり、仕事も自信も失いかけたからこそ、少年時代の失敗や未完成の映画を別の意味で見直せます。
企画を書く行為によって、肇は自分の現在を物語として引き受け始めました。過去を美化するためではなく、なぜ映画を作れなくなったのかを含めて作品へ変えようとしている点に、小さな再生があります。
企画がすぐ採用されなくても肇は出発点へ戻れた
肇が新しくまとめた企画は、すぐ採用されるわけではありません。少年時代を思い出し、心から書きたい企画を作ったからといって、仕事や借金の問題が一度に解決することはないのです。
それでも、流行へ迎合した企画とは異なり、そこには肇自身が作る理由があります。採用される保証がないものを提出したこと自体が、批判を受けながら作る側へ戻った証しになります。
さつきも、企画の結果だけではなく、肇がようやく自分の出発点へ戻ったことを受け止めます。肇に必要だったのは、必ず成功する企画を見つけることではなく、失敗する可能性があっても自分の作品を差し出すことでした。
企画が通らないことと、創作者として何も変わらなかったことは同じではありません。仕事としての成功はまだ得られていなくても、肇は他人の評価より先に、自分が作りたいものを言葉にするところまで戻っています。
肇の再起は企画の採用ではなく、採用されない可能性を引き受けて自分の企画を出した瞬間から始まりました。
江藤が残した「酒臭い男」の情報
江藤はマチルダをチェーンソーで殺した人物ではありませんでした。しかし、彼との再会が事件の調査に無意味だったわけではありません。
江藤は、当時マチルダにつきまとっていた酒臭い男がいたという情報を伝えます。男の名前や素性、マチルダとの関係は、第3話の段階では分かりません。
前話で灯里が目撃した男と、江藤が語った酒臭い男が同一人物なのかも確認されていません。どちらもマチルダの近くにいた可能性はありますが、断片的な証言だけで一人の人物へ結びつけることはできません。
ただ、複数の記憶や証言の中に「マチルダの近くにいた男」が現れ始めたことで、調査は新しい段階へ進みます。映画の怪物として作られた江藤への疑いが消えた代わりに、現実に存在した可能性のある酒臭い男が浮上しました。
第3話の結末で、江藤はマチルダ殺害犯ではないと分かります。肇のチェーンソー記憶は、江藤への恐怖と、脚本を否定された屈辱によって誇張されたものでした。
同時に肇は、マチルダから教えられた「批判を受けながら作る側へ立つ」という姿勢を思い出します。仕事も借金も解決していませんが、自分の映画研究部時代を題材にした企画を作ることで、創作者としての小さな再出発を果たしました。
第3話のラストでは想像上のジェイソンが消え、マチルダにつきまとっていたという現実の酒臭い男が新たな謎として残されます。
ドラマ「ラムネモンキー」第3話の伏線

『ラムネモンキー』第3話では、江藤をマチルダ殺害犯とする記憶が否定される一方、酒臭い男という新しい手掛かりが示されました。
また、所在不明のNo.12、映画研究部のノート、ラムネ瓶、『ラムネモンキー 炭酸拳』という未完成の作品も、過去の事件と三人の現在をつなぐ要素として残っています。
マチルダにつきまとっていた酒臭い男
江藤が最後に伝えた酒臭い男は、マチルダ失踪事件へつながる可能性のある新しい人物です。ただし、灯里が目撃した男との関係も含め、第3話では身元も行動も確定していません。
江藤が覚えていた「酒臭い男」の存在
江藤は、マチルダの近くに酒臭い男がいたことを覚えていました。単に一度見かけた人物なのか、継続的につきまとっていたのか、どの程度マチルダと接触していたのかは、まだ十分に整理されていません。
酒の臭いは人物を特定する決定的な情報ではありませんが、当時その男と接した者の記憶を呼び起こす特徴にはなります。学校関係者や元生徒へ確認すれば、同じ特徴を持つ人物を見たという証言が出る可能性があります。
一方で、酒臭いという印象だけで危険人物だと断定することもできません。灯里を映画の悪役として犯人扱いし、江藤をホラー映画の怪物へ変えた失敗を考えれば、雄太たちは先入観を持たずに調べる必要があります。
灯里が見た男と酒臭い男は同一人物なのか
灯里は、女性の悲鳴を聞いた後、うずくまるマチルダの近くにいた男を目撃しています。江藤もマチルダにつきまとっていた酒臭い男の存在を覚えているため、二つの証言が同じ人物を指す可能性はあります。
ただし、現時点では同一人物だと確認されていません。灯里が見た男から酒の臭いがしたという情報もなく、江藤が語った男が失踪当日の現場にいたという証拠もありません。
二つの証言を早急に一つへまとめると、また記憶の空白を都合のよい物語で埋めることになります。服装、年齢、体格、マチルダとの会話など、共通する特徴を確認したうえで判断する必要があります。
江藤がどこまでマチルダと男の関係を知っていたのか
江藤は学校内でマチルダと接する立場にいました。そのため、生徒だった雄太たちが知らない大人同士の人間関係を見ていた可能性があります。
ただし、江藤が男の名前や目的まで把握していたのかは分かりません。単にマチルダの近くで見かけ、酒臭いという特徴だけを記憶していた可能性もあります。
江藤が当時、男について誰かへ相談したのか、マチルダ本人へ注意を促したのかも気になるところです。失踪前に大人たちがどこまで異変を把握していたのかを調べることで、事件が放置された経緯も見えてくるかもしれません。
消えたNo.12と映画研究部に残された資料
第2話で判明したNo.12の欠落は、第3話でも解決していません。映画研究部のノートやビデオテープは、三人の記憶を検証する材料である一方、肝心な部分だけが抜け落ちた不完全な記録です。
No.12だけが存在しない状態は続いている
映画研究部のビデオテープは13本あるはずですが、No.12だけが見つかっていません。第3話では肇の映画作りの原点が描かれたものの、欠落した一本の内容や所在は明らかになりませんでした。
No.12にマチルダ失踪前後の映像が収められているとは限りません。単なる撮影失敗や、事件とは無関係な映画の素材である可能性も残っています。
それでも、番号で管理された資料から一本だけなくなっている点は不自然です。誰が最後に持っていたのか、肇が保管する前に別の人物へ渡したのかを確認することが、事件の時系列を整理するうえで重要になります。
映画研究部のノートには肇の記憶を戻す力がある
映画研究部のノートは、肇が書いた脚本や撮影計画を記録したものです。江藤をめぐる記憶でも、肇がノートを取り戻すために職員室へ忍び込んだ事実が、チェーンソー場面を修正する手掛かりとなりました。
ノートには、当時の撮影日や参加者、使用した小道具などが残っている可能性があります。映像だけでは分からない撮影前後の行動を整理できれば、映画として演じた場面と現実の出来事を分けやすくなります。
同時に、ノートは肇自身の創作の原点でもあります。事件の証拠としてだけでなく、肇が何を面白いと感じ、三人で何を作ろうとしていたのかを現在へ戻す役割を持っています。
手放しかけた資料を肇が再び見る意味
仕事に行き詰まった肇にとって、少年時代の資料は輝かしい原点である一方、現在の自分との差を見せる苦しい物でもあります。かつては自由に映画を作れたのに、今は流行へすがる企画しか書けない。
その比較から逃げるため、資料ごと過去を手放したくなる気持ちもあったと考えられます。
しかし、資料を見直したことで、肇は自分が最初から優れた監督だったわけではないと思い出します。まねや失敗を繰り返しながら、それでも仲間と撮ることを楽しんでいました。
過去の資料を保存することは、昔の成功にしがみつくこととは違います。そこから現在の自分に必要な姿勢を読み直せるかどうかが、肇の再生を左右します。
ラムネ瓶と未完成の『ラムネモンキー 炭酸拳』
酒瓶の代わりに使われたラムネ瓶は、少年たちが模倣から自分たちの表現へ進んだ象徴です。作品がどこまで完成していたのかは分からず、未完成の映画と51歳になった三人の人生が重なります。
酒の模倣から少年たち独自の小道具へ変わる
酒瓶を使う案は、少年たちが大人向けの映画をまねようとしたものです。そこからラムネ瓶へ変えたことで、作品は借り物の格好よさから、三人の現実に根差した映画へ近づきます。
この変化は、現在の肇が流行の要素を詰め込む姿と対照的です。流行を使うこと自体が問題なのではなく、自分の経験や感情へ変換しないまま並べることが、企画を空虚にしていました。
肇が新しい企画で映画研究部の記憶を題材にしたのは、ようやく自分の人生を作品の材料として引き受けたからだと考えられます。ラムネ瓶は、その出発点を思い出させる小道具です。
『ラムネモンキー 炭酸拳』は完成したのか
『ラムネモンキー 炭酸拳』という作品の原型は明らかになりましたが、映画が最終的に完成したのか、どのような結末を撮ろうとしていたのかは、第3話では分かりません。
もし未完成なら、マチルダの失踪や三人が疎遠になった理由と関係している可能性があります。撮影途中で何かが起き、映画研究部そのものが止まったとも考えられます。
また、完成していたとしても、No.12の欠落によって現在は全体を確認できない可能性があります。映画の完成状況を確かめることは、失踪前後の時間を整理する作業にもつながりそうです。
マチルダが創作を続けさせた理由
マチルダは、三人の映画作りをただ褒めるだけではありません。肇に対し、批判されない安全な側にいるのか、批判を引き受けて作る側に進むのかを考えさせました。
彼女がなぜそこまで少年たちの創作を大切にしたのかは、第3話では明確に語られません。単に映画好きの生徒を応援したかっただけでなく、何かを作ることで三人が自分の人生を選べるようにしたかったとも考えられます。
マチルダが抱えていた事情や痛みは、三人には見えていません。それでも彼女が正しく生きようとする姿勢と、批判を恐れず作るよう促した言葉には、共通するものがあるように見えます。
ドラマ「ラムネモンキー」第3話を見終わった後の感想&考察

『ラムネモンキー』第3話で印象的だったのは、夢を仕事にできた人物だからこそ、評価へ強く支配されてしまうという肇の苦しさです。
映画監督になれなかった人物ではなく、実際に夢をかなえた肇が、批判を恐れるあまり映画を作れなくなっています。その現在を救ったのは、かつて評価される保証もないまま書いた未熟な脚本と、仲間と作ったラムネ瓶の映画でした。
肇のプライドは自信ではなく傷を隠す防具だった
肇は自信に満ちた映画監督のように振る舞います。しかし第3話を見ると、その強い態度は、自分の才能へ確信があるからではなく、才能がないと見抜かれることを恐れているからだと分かります。
批判を受け入れられない肇が最も評価へ依存している
肇は、周囲が自分の演出を理解しないと怒ります。相手の意見へ耳を傾ければ、自分の企画や演出に問題がある可能性を認めなければならないからです。
一方で、仕事を失った肇は、流行の要素を詰め込んだ企画を作ります。誰にも迎合しないように見えた人物が、実際には最も分かりやすい形で他人の評価へ合わせていました。
この矛盾が、第3話の肇を非常に人間らしくしています。自分を曲げたくないのではなく、曲げた結果失敗したときに、自分には何も残らないことを恐れているのでしょう。
だから肇は、表面上は他人を見下しながら、相手に認められることを求め続けます。江藤への怒りが37年間消えなかったのも、心のどこかで江藤へ自分の才能を認めさせたかったからだと考えられます。
元同僚への見下しに現れた嫉妬と自己不信
安定して仕事を続ける元同僚を前にした肇は、相手の仕事を低く見るような態度を取ります。しかし、本当に興味がない相手なら、そこまで強く反応する必要はありません。
肇は、自分が失ったものを相手が持っていることに傷ついています。作品を完成させる場所、仕事を続ける関係、周囲から必要とされる役割。
そのすべてが、現在の肇にはありません。
相手を妥協した人物だと考えれば、自分が仕事を失ったのは才能を貫いた結果だと思えます。しかし、自分も売れそうな企画へすがっている以上、その説明は成立しません。
肇の見下しは優越感というより、自分の価値が下がったと感じる不安から生まれています。相手を低く置かなければ、自分が創作者として何者なのかを保てなくなっていたのです。
肇の攻撃性は才能を守るより創作の場所を壊していた
肇は、自分の作品を守るために周囲へ強く当たってきました。けれども映画は、監督一人の頭の中だけでは完成しません。
俳優、スタッフ、制作側など、多くの人間との共同作業が必要です。
批判をすべて敵意として受け取れば、周囲は肇へ意見を言わなくなります。それは監督の自由が守られた状態ではなく、作品を良くするための対話が失われた状態です。
結果として肇は、自分の感性を守ろうとするほど、映画を作る場所から遠ざかりました。プライドは創作を続ける支えではなく、傷つきやすい自分を守る防具になっていたのです。
肇に必要だったのは自信を取り戻すことより、傷ついても作品を出し続けられる弱さの受け入れでした。
江藤の体罰と誤った殺害記憶は分けて考える必要がある
チェーンソーの記憶が間違っていたからといって、江藤の教師としての問題まで消えるわけではありません。第3話は、江藤の体罰的な態度を肯定せず、それでも殺人犯と決めつける記憶は訂正するという難しい線を描いています。
江藤が怖い教師だった事実は消えない
生徒たちが江藤をジェイソンと呼ぶほど恐れていたことには理由があります。厳しいだけでなく、体罰も辞さないような態度があったなら、少年たちが恐怖を感じるのは当然です。
また、肇の脚本を傷つけるような否定をしたことも、教育として正しかったとは言い切れません。未熟な作品を指摘する場合でも、創作を始めた少年の人格まで否定する必要はないからです。
肇が傷つき、長く怒りを持ったこと自体は間違いではありません。問題は、その怒りを根拠にして、江藤がマチルダを殺したという別の出来事まで作り上げたことです。
傷つけた人物だから犯人だという論理の危うさ
人は自分を傷つけた相手に、別の悪事まで当てはめたくなることがあります。一度「悪い人間」という像ができると、その人物の行動をすべて悪意で説明できるからです。
雄太が灯里を美少女の悪役へ変えたのと同じように、肇は江藤をホラー映画の怪物へ変えました。二人とも、自分にとって不快だった相手を事件の犯人へ配置することで、複雑な現実を理解しやすい物語にしています。
しかし、容疑者として疑うことと、犯人だと決めつけることは違います。江藤が体罰的な教師だった事実を調べながら、マチルダ失踪については別の証拠を集める必要があります。
この切り分けができなければ、雄太たちは自分たちの正義を証明するために、また別の人物を悪役へ変えてしまいます。
年老いた江藤へ怒りをぶつけても肇の時間は戻らない
病院で弱った江藤を前にした肇には、長年抱えてきた怒りをぶつける機会が生まれます。しかし、江藤に謝罪や後悔を求めても、少年時代の脚本が傷つけられた時間は戻りません。
また、現在の創作不振まで江藤の責任にすることもできません。江藤の言葉が影響したとしても、その後どのように批判へ向き合うかは、肇自身が選び続けてきたからです。
江藤を許す必要があるという話ではありません。肇が必要としているのは、江藤への怒りを人生の中心から外し、自分が今どのような作品を作るかを自分で決めることです。
過去の加害をなかったことにせず、それでも現在の人生を加害者へ預けないことが、肇にとっての記憶の修正でした。
批判する側ではなく作る側へ戻るという意味
マチルダが肇へ残した考え方は、批判を無視することでも、自分の才能を信じ切ることでもありません。失敗や否定を引き受けながら、それでも作る側へ立つという姿勢です。
批判するだけの立場は安全である
他人の作品の欠点を指摘することは、自分の作品を差し出すことより安全です。自分は評価されず、相手の失敗だけを取り上げられるからです。
現在の肇も、仕事を続ける元同僚や、自分の企画へ意見する周囲を批判していました。相手の作品や判断を下に置けば、自分が新しい作品を完成できていない事実を見ずに済みます。
しかし、批判だけを続ける限り、肇自身の映画は生まれません。創作者でありたいなら、不完全な企画を見せ、否定される可能性を引き受けなければなりません。
作る側は失敗と批判を引き受けなければならない
少年時代の肇が映画を作れたのは、失敗しない自信があったからではありません。カメラを持ち、脚本を書き、雄太と紀介を誘えば、何かを撮れることが楽しかったからです。
大人になった肇は、失敗が自分の経歴や収入に直結するため、簡単には作れません。それでも、評価される保証を求め続ければ、永遠に企画を出せなくなります。
マチルダの言葉は、苦しさを無視して挑戦しろという精神論ではありません。作る側を選ぶなら、批判される痛みまで含めて引き受ける必要があるという、創作の責任を示しています。
採用されない企画にも肇の回復がある
肇の新しい企画は、すぐに採用されません。ここで都合よく仕事が決まらないからこそ、第3話の再生には説得力があります。
肇が変わったのは、成功を取り戻したからではありません。流行を並べた安全な企画ではなく、自分が本当に書きたい三人の映画研究部の物語を提出した点です。
採用されなければ傷つきますし、自分の才能をまた疑うことになるかもしれません。それでも、自分の企画を他人へ渡した時点で、肇は批評される側、つまり作る側へ戻っています。
結果が出る前でも、肇が自分の作品を差し出したこと自体に、第3話の確かな再生があります。
ラムネ瓶は模倣から自分の物語へ進む象徴
第3話の題名は江藤をめぐる恐怖を前面に出していますが、物語の核心にあるのはラムネ瓶です。大人の映画をまねた酒瓶がラムネへ変わることで、少年たちの作品は初めて自分たちの映画になります。
大人の格好よさをまねるだけでは自分の映画にならない
少年時代の肇は、好きな映画の場面を再現しようとしていました。創作の最初が模倣から始まることは珍しくありません。
しかし、酒瓶をそのまま使うだけなら、見た作品の格好よさを借りているにすぎません。三人が実際に触れられるラムネ瓶へ変えたことで、場面には少年たち自身の生活が入り込みます。
現在の肇が流行の要素を詰め込んだ企画には、この変換がありません。話題になったものを集めても、肇自身がなぜそれを撮りたいのかが見えなければ、作品は借り物のままです。
未完成の映画が51歳の三人を再びつなぐ
『ラムネモンキー 炭酸拳』がどこまで完成していたのかは、まだ分かりません。しかし、未完成の可能性があるからこそ、現在の三人が再び関わる意味が生まれます。
雄太は会社と家族の中で自分を見失い、肇は評価への恐怖で映画を作れなくなり、紀介は介護を理由に自分の人生を止めていました。三人とも、少年時代の映画だけでなく、自分の人生を未完成のまま置いています。
過去の作品を完成させればすべてが解決するわけではありません。重要なのは、当時持っていた勇気や率直さを、51歳の現在でどのような選択へ使うかです。
酒臭い男の謎が創作と事件を再びつなぐ
肇は創作者として小さな一歩を踏み出しましたが、マチルダ失踪事件は解決していません。江藤が残した酒臭い男の情報によって、新しい調査が始まります。
肇が映画を作り始めた記憶と、マチルダの失踪は別々の話ではありません。マチルダは三人へ創作する場所を与えた人物であり、その人物がなぜ消えたのかを知ることは、三人が自分の人生を見直すことにつながります。
次回以降で気になるのは、酒臭い男が誰なのか、灯里の目撃した男と同じ人物なのか、そしてマチルダがなぜその男につきまとわれていたのかという点です。
第3話は、肇が過去の怪物を倒す話ではなく、怪物へ変えていた記憶をほどき、自分の手で再び物語を作り始める回でした。
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