ついに最終回を迎えた『不適切にもほどがある!』。
昭和と令和をつないできた“タイムマシンバス”は残り一往復。
市郎はその最後のチャンスを、停職処分で心折れかけた渚のために使うと決断します。1986年の喫茶SCANDALで、渚と母・純子が時代を超えて再び向き合う場面から、物語はクライマックスへ。
同時に昭和に残った市郎も“価値観のアップデート”に挑み、令和側ではキヨシ・佐高・サカエらの連鎖が動き出す――。
本稿では、この最終回が提示した「アップデート」と「寛容」という二つの答えを、丁寧に読み解いていきます。
不適切にもほどがある!(ふてほど)10話(最終回)のあらすじ&ネタバレ

昭和と令和を往復してきた“タイムマシンバス”の運行は、スポンサー撤退で残り一往復。
市郎(阿部サダヲ)は、その最後の一回を“孫”渚(仲里依紗)のために使うと決め、彼女を1986年へ連れていき、母・純子(河合優実)と会わせる――ここが最終回の起点です。
ドラマはその後、「昭和でアップデートされた市郎」と「令和でアップデートを促す渚」という二つの軸を交互に描きつつ、結末で“寛容”という落としどころへと辿り着きます。
最終回の骨子は下記の通りです。
最後の一往復──渚を昭和へ、母・純子と“喫茶SCANDAL”で再会
スポンサーが降り、タイムマシンは“あと一往復”。
市郎は「渚を元気づけたい」と昭和行きを決断。渚は“受験モード”に切り替わった等身大の純子と向き合い、母娘の時間を生き直します。
純子のまっすぐな言葉に励まされた渚は、キヨシ(坂元愛登)とともに令和へ帰還。「母と娘の関係を、時代のズレを超えて修復する」というシリーズの主題が最もクリアに結実する場面です。
昭和に残った市郎──“地獄のオガワ”卒業宣言と、価値観のアップデート
令和での経験を経た市郎は、学校に戻ってから“昔の当たり前”が持つ暴力性に鋭く反応します。女装趣味が知られて校長が退職に追い込まれる空気、若手女性教師への“歓迎会セクハラ”、不登校生徒への乱暴な指導方針……。
市郎は「地獄のオガワをやめて、仏のオガワになる」と宣言し、叱責より対話へ、同調より尊重へと舵を切る。
ここで彼は、単に令和の規範に合わせるのではなく、自分の言葉で“昭和の組織”に新しい基準を提案する教師へと成長します。
令和サイドの連鎖──サカエの就任、キヨシの“橋渡し”、50代の佐高と再会
一方、令和ではサカエ(吉田羊)がEBSテレビのカウンセラーに就任。受験勉強中のキヨシは、昭和で不登校だった佐高くん(成田昭次)と“令和の50代”として再会し、その変化に背中を押されます。
佐高はオンラインゲーム企業のCEOとなり、「恩返しがしたい」と申し出。キヨシはその想いを井上(三宅弘城)のタイムマシン研究のスポンサーへ繋げ、昭和と令和を跨ぐ“学びの輪”を完成させます。
個人の変化(マイナーチェンジ)が、他者の変化(アップデート)を呼ぶ象徴的な連鎖でした。
不適切を“笑い”で包まないために──卒業式〜謝恩会、昭和の組織を内側から変える
卒業式や謝恩会の場面でも、市郎は昭和の慣行に“違和感”を示し、笑って流さず、言葉にする態度を貫きます。
重要なのは、「令和の正解を昭和に当てはめて断罪する」でも「昭和礼賛でもない」こと。
“気づいた側”と“まだ気づけない側”が、どう折り合うか。その試行錯誤が後の“寛容ミュージカル”へと接続していきます。
ミュージカル「寛容になりましょう」──“アップデート”と“寛容”は対立しない
クライマックスはお馴染みのミュージカル。
「片方がアップデートできなくても、もう片方が寛容なら、まだ付き合える」
というメッセージが、歌と踊りで提示されます。
さらに Creepy Nuts のサプライズ登場も話題に。
昭和の街に“令和のヒップホップ”が降臨するズラしは、変化(アップデート)と受容(寛容)を同時に描く象徴的演出でした。
ラスト2分──“注釈テロップ”の反転が意味するもの
シリーズの象徴だった注釈テロップが、最終回だけニュアンスを変えて登場します。
「本作には不適切な台詞が含まれるが、2024年当時の表現をあえて使用した」
というメッセージ。
初回は“1986年当時の表現”。最終回は“2024年当時の表現”。
いま私たちが使っている言葉も、いつか“過去のもの”になる。
“不適切”は他人事ではなく、自分の未来にも静かに潜む――そんな鏡像効果を残して物語は幕を閉じました。
不適切にもほどがある!(ふてほど)10話(最終回)の感想&考察

最終回は、単に昭和/令和の価値観を善悪で二分しません。
物語構造のキモは 「アップデート(価値観の更新)×寛容(対話の余白)」の二項併置 にあります。YUKIの視点で、3点に整理しておきます。
“アップデート”は手段、“寛容”は関係のデザイン
市郎の軸足は 「暴力的な慣行(体罰、性別役割の押し付け、同調圧力)をやめる」という行動のアップデート にあります。
しかし彼は、アップデートできない/追いつけない相手を切らない。このとき必要になるのが、サカエの台詞に凝縮された“寛容”です。
アップデートが“正義の旗”になった瞬間、その旗は他者を刺す刃に変わる――今のSNS空間が体現するジレンマを、ドラマは “怒らず、責めず、近くにいる” という接し方で乗り越えさせました。
目的は人の回収ではなく、関係の継続。この着地が見事でした。
② “個の変化”が“構造”を動かす —— キヨシ→佐高→井上の連鎖
昭和で不登校だった佐高くんが、令和でIT企業の経営者になって再会する線は、
「変化は当事者の中で起こり、それが回り回って仕組み(研究の資金=スポンサー)を動かす」
という逆流の寓話です。
教育は“そのときの一人”のためにある――最終回はその当たり前を、
キヨシの背中押し → 佐高の恩返し → 井上の研究継続
という流れで可視化しました。
“当事者主語”を取り戻した連鎖が実に爽快でした。
③ “注釈テロップ”の反転は、視聴者の倫理の軸を1クリックずらす
本作のテロップは「これは演出だから許してね」という免罪符ではなく、
「あなたの“今”も、将来の誰かから見れば古くなる」
という挑発です。
価値観の“現在地”は常に過渡期。
最終回の“2024年当時の表現”という書き換えは、私たちの言葉選び・笑いのツボ・配慮の基準そのものをメタに問い直す装置でした。
ドラマの枠を超え、受け手側のアップデート にまで踏みこんでくる、非常にクドカンらしい仕掛けでした。
余談:サプライズ演出の妙
Creepy Nuts の“時空をまたぐ出演”は、カルチャーは時代を横断して移植され、文脈のズレが新しい笑いと気づきを生むことの象徴。昭和の空気に令和のビートが混ざる違和感は、
「ズレを楽しみ、ズレから学ぶ」
という本作の方法論そのもの。単なるお祭りでなく、テーマ推進の装置として機能していました。
まとめ(総評)
物語の結論:昭和も令和も“生きづらさ”を内包している。アップデート(直す)と寛容(待つ)の両輪で、関係を続ける術を学べ――最終回の贈り物は、この実践知でした。
構成の妙:渚×純子の母娘再会で“私的回復”を、佐高×キヨシ×井上の連鎖で“社会的回復”を描き、個と構造の両面から希望を接続。
メタ仕掛け:注釈テロップの反転で、視聴者の現在地を相対化。
「次の時代の誰かに恥じない今日の振る舞いを」 と静かに促す。
最終回を見終えて残るのは、“正しさ”よりも“関係の持続”を優先する勇気でした。アップデートに遅れる誰かを攻撃するのではなく、遅れる理由に耳を澄ます――その余白こそ、タイトルの逆説に対する最高のアンサーだと思います。
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