第10話(最終回)は、「自首すれば終われる」という甘い期待を、真正面から否定するラストでした。
僕たちが仕掛けた“最高の自首”は、権力によって簡単にもみ消され、それでもトビオは逃げません。
屋上で叫んだ「お願いだから逮捕してください」という言葉、そして10年後に描かれるそれぞれの人生――最終回が突きつけたのは、勝つことでも赦されることでもなく、「それでも生き続けろ」という、あまりに重たい答えでした。
ここでは、最終回の流れと結末を整理しながら、『僕やり』が最後に残した“償いの形”を読み解いていきます。
ドラマ「僕たちがやりました(僕やり)」10話(最終回)のあらすじ&ネタバレ

最終回の副題は「償いへの逆転劇!生き続けろ」。
第9話で準備した“最高の自首”は、予定調和という言葉を粉々にするほど苛烈な帰結を迎えます。物語は、4人が大勢の前で罪を告白したその直後から一気に加速し、以降は息つく間もない連鎖が続いていきます。
ライブ会場で「僕たちがやりました!」――決行、そして拉致
トビオ、伊佐美、マル、パイセンの4人は、ライブ会場に乱入し、観客の前で「僕たちがやりました!」と矢波高校爆破事件の犯行を宣言します。さらに事前に告白動画をネットに公開していたため、会場の混乱は一気に全国へと広がっていきました。
しかし直後、動物マスクを被った集団が突入。4人は激しく殴打され、そのまま拉致されてしまいます。
黒幕はやはり輪島で、弁護士の西塚と腹心の玲夢に“後始末”を命じていました。ここまで積み上げた「可視化された罪」が、再び暴力によって押し潰されようとする瞬間です。
「10秒以内に消えろ」――パイセン殺害指令と、3人の選択
監禁場所で西塚は、伊佐美・マル・トビオに冷酷な宣告をします。
「小坂秀郎(パイセン)はこれから殺される。あなたたちはもう関係ない。全部忘れてください」
そして、「10秒以内に消えろ」。
混乱の中、伊佐美とマルはその場を離脱します。
逃げるという選択が、ここでは“生き延びるための反射”として描かれる一方で、その場に踏みとどまったのはトビオ一人でした。第9話までの流れを知る視聴者にとって、この選択は偶然ではなく、必然に見えます。
刺し合いの果て――玲夢VSパイセン、暴力の逆流
玲夢は憎悪をむき出しにし、パイセンを絞殺寸前まで追い詰めます。
しかしパイセンはナイフで反撃し、腹部を刺突。なおも覆いかぶさり、滅多刺しにする凄惨な光景へと転じます。
トビオは止めることができず、ただ呆然と立ち尽くすしかありませんでした。
その直後、飯室ら警察が突入し、西塚とパイセンは逮捕。パイセンは再逮捕され、トビオは被害者として保護されます。皮肉にも、最も罪を背負う覚悟をしていたトビオだけが、法的には“無罪”の位置に戻されてしまうのです。
それでも“認められない罪”――もみ消される自白
ネットでの告白動画、会場での公開自白。
それでも輪島の力は強大で、4人の罪は再び闇に吸い込まれていきます。トビオは釈放され、何の咎も受けないまま日常に戻されることに愕然とします。
ここから物語は、「逃げ続ける自由」から「生きて背負う自由」へと、静かに舵を切ります。
屋上の小さな爆弾――「お願いだから逮捕してください!」
トビオは凡下高校の屋上に向かい、かつて矢波高校に仕掛けたものと同じ“弱い爆弾”を起動します。窓ガラス一枚が割れる程度の小さな爆発。それでも、彼にとっては十分すぎる再現でした。
「俺たちが犯人だ。お願いだから逮捕してください!」
この叫びは、逃げ続ける自由を自ら放棄し、“生きて償う自由”を選び取る宣言です。
笑顔と涙が同時に崩れ落ちるこの場面は、トビオという人物の最終的な到達点でもありました。
蓮子の言葉と別れ――「待ってる」VS「別れたい」
現場を目撃した蓮子は、トビオに「いつまでも待ってる」と告げます。
しかしトビオは、「爆破を思い出すから別れたい」と拒絶します。それは愛情を断ち切るための言葉であり、同時に自分への罰でもありました。
誰かに許されることで救われる道を、彼は選ばなかったのです。
10年後――それぞれの“生き直し”
10年後、出所したパイセンの呼びかけで4人は再会します。
- トビオは定職に就かず、日雇いやバイトを転々とする生活
- 伊佐美は二児の父に
- マルは因果を背負いながらキャバクラを経営
- パイセンは刑期を終え、空白を抱えたまま“外”に立つ
そして偶然、蓮子と再会したトビオは「生きててよかった。頑張ったね」と抱きしめられます。
彼は、許されることなく、それでも生き続ける道を選び直したのです。
ドラマ「僕たちがやりました(僕やり)」10話(最終回)の感想&考察

最終回は、「自首=可視化の技術」という第9話の設計を、「償い=持続の技術」へと反転させた一本でした。
正義の勝利でも、悪の断罪でもない。「生き続けろ」という命題だけが、胸の奥に重く残る。ここでは論点を7つに絞って掘り下げます。
“最高の自首”の敗北は、ドラマの勝利だった
ライブ乱入と告白動画。可視性と不可逆性を掛け算した“最高の自首”は、輪島の暴力装置によってあっさりと踏みにじられました。けれど、この「手続きとしての敗北」を描いたからこそ、物語は一段深い場所へ進みます。
制度が機能しないなら、倫理はどこに置かれるのか。
ドラマはここで「勝てなかった自首」を失敗として切り捨てず、“それでも選び直すこと”へ観る側を連れていきます。正解を提示しない終わり方は、問いを視聴者に返すための設計でした。
屋上の“ミニ爆弾”は、自己破壊ではなく自己証明だった
トビオが屋上で起動させた爆弾は、死ぬための装置ではありません。
窓ガラス一枚しか割れない規模に留めたのは、「矢波高校の爆破も、人を殺す意図ではなかった」という断絶を、自分の身体で証明するためです。
「死んで償えるなら今すぐ死にたい。でもそれは逃げと同じ」
この独白が示すのは、“痛みを持続させることこそが償い”という逆説でした。笑顔から涙へ崩れ落ちる一連の流れは、トビオが思想ではなく身体で倫理を語った瞬間だったと思います。
パイセンが刺したのは、父の影だった
玲夢を刺すパイセンの行為は、表面だけ見れば保身のための暴力です。
けれど物語の深層では、輪島という父が委託してきた暴力構造への反射的な反撃として配置されています。
愛されなかった息子が、加害の位相で反抗してしまう。
そのねじれは、刺殺という最悪の形で噴き出しました。
パイセンが「再逮捕」される結末は、感情に寄り添うことを拒み、構造として断罪する冷たさを伴っています。
「待つ」と「別れる」――蓮子の受容と、トビオの自己罰
蓮子の「待ってる」は、トビオの存在そのものを肯定する言葉でした。
それでもトビオは「別れ」を選びます。
この選択は未熟な自己罰でありながら、他者を巻き込まないための倫理でもあります。
正しくもあり、間違ってもいる。この二重性があるからこそ、二人の関係は安易な救済に回収されず、痛みの余白を残しました。
10年後の時間跳躍が示す、「生き直し」は結果ではなく過程だということ
10年後の再会は、人生の答え合わせではありません。
伊佐美は父になり、マルは軽さを引きずったまま経営者となり、トビオは細く、しかし確かに生きている。
幸福の点描を並べないことで、ドラマは「償いに正解はない」と宣言します。
正しいから生きるのではなく、生きるから正しさを探し続ける。ここに「生き続けろ」という言葉が重なります。
“可視化の技術”から“持続の技術”への転換
第9話が「罪を見せる設計」だったとすれば、最終回は「罪を生きる設計」でした。
公開自白が潰されても、持続する痛みは奪えない。
だから屋上での宣言は、起爆であり終章でもある。自分の命を社会に差し出すのではなく、社会の中で生かし続ける。
この着地は、テレビドラマとしてかなり異端で、だからこそ強く残ります。
原作との差異が拓いた“生き続ける倫理”
ドラマ版は原作とは異なる結末を選びました。
制度の外で正義を叫んでも、制度の内で認められるとは限らない。だからこそ必要になるのが、「生き続ける」という倫理です。
勝たない主人公、報われない選択。それでも胸が澄むのは、主題が一貫していたからでしょう。
総括
最終回は、勝利の物語ではありませんでした。
正しさより持続、救いより痛み。
“そこそこ”に生きたかった若者たちが、逃げる若さを終わらせるために選んだのが「生き続ける」ことだった。
屋上で鳴った小さな破裂音は、その号砲です。
「生きててよかった。頑張ったね」
この一言が、ドラマ全体のエピグラフとして残ります。
生き続けることを肯定したラスト。その潔さを、僕は強く支持します。
ドラマ『僕たちがやりました』の関連記事
過去の記事についてはこちら↓



ドラマの豪華キャスト陣については以下記事を参照してくださいね。


コメント