「舞台の敗戦」にどう意味を与えるか。

第6話は、久部三成(菅田将暉)が自らの限界と向き合い、演劇という営みの“修正力”を見出していく回だった。
初日の混乱から一夜、彼の前に現れたのは伝説の俳優・是尾礼三郎(浅野和之)。是尾が放った“絶賛でも酷評でもない”ひと言が、久部の心を再び動かしていく。
打ち上げで交錯する視線、静かに立ち上がる関係、そして「楽屋」とは何かという題の問い。
第6話は、敗北を終わりではなく始まりに変える、演劇の“再設計”の夜を描いた。
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)6話のあらすじ&ネタバレ

第6話は、第5話の“初日”という敗戦から静かに幕を開ける。舞台は閉じたが、劇団の物語は終わらない。
観客が去った後のWS劇場に、まだ拍手とざわめきの残響が漂っている。久部三成(菅田将暉)は、舞台監督・伴工作(野間口徹)からの報告を聞きながらも上の空だった。
自らの演出の限界に触れた手応えが、まだ掌に残っている。そんな彼の前に、一人の老人が姿を現す。
客席に取り残されたその男は、是尾礼三郎(浅野和之)――日本演劇界を代表するシェイクスピア俳優であり、蜷川幸雄作品の常連。その名を聞いた瞬間、久部の表情が一変する。
是尾は久部に対し、絶賛でも嘲笑でもない「一定の評価」を伝える。
その言葉は中庸に聞こえるが、“次へ進め”という明確な指針を含んでいた。さらに是尾は、打ち上げに顔を出すことを約束。第6話はこの“初日の敗戦”を“再起動の夜”へと変える転機のエピソードとなる。
打ち上げの夜——三つの視線が交わる
打ち上げの会場には、熱気と疲労、そして微妙な緊張が入り混じっていた。
巫女の樹里(浜辺美波)は、父・江頭論平(坂東彌十郎)の庇護から離れ、初めて劇団の輪に加わる。
その姿を見つめるのは脚本家志望の蓬莱省吾(神木隆之介)。彼の表情には、前話の“ズギャン”という衝撃がそのまま浮かんでいる。一方、樹里の視線の先にいるのは久部。そこに倖田リカ(二階堂ふみ)のまなざしも加わり、久部を中心とした三角関係の火種が見え始める。
是尾は久部に言葉少なに助言を残す。「王道を目指すな。ただし、悪ふざけにもするな。舞台を生き物と捉え、役者が自分の足で立てる場所を増やしなさい」。
第5話で起きた“事故”の数々――肉離れ、照明トラブル、即興の混乱。それらを否定するのではなく、舞台の“呼吸”として設計に取り込めと説く。久部の表情に迷いが消え、初めて演出家として「敗戦から考える顔」へと変わる。
蓬莱・樹里・リカ——三角ではなく三本の線
蓬莱は樹里を食事に誘うが、彼女は「久部と約束がある」と断る。
その横でリカは久部に一言だけ告げる。「見えました」。彼女が見たのは、舞台上で“踊り手”としてではなく、“人間として”立つ自分の姿だ。久部の演出が、彼女の中の何かを目覚めさせたのだろう。リカの一言は、次回以降の再配役=舞台設計の再構築の伏線となる。
一方、樹里はまだ“外の人”としての立ち位置にいる。彼女に惹かれる蓬莱の情熱は強いが、どこか「書く者の視線」に閉じこもっている。樹里が彼の言葉ではなく“存在そのもの”を見るようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。
「楽屋」はどこにあるのか——是尾の言葉が示したもの
第6話では、タイトルの命題「楽屋はどこか」に一つの仮説が与えられる。
楽屋とは、部屋や場所ではなく“状態”のこと。舞台のトラブル、観客の予期せぬ反応、役者の不調――そうした“生のノイズ”を受け入れ、互いを守る関係が成立した瞬間、そこが楽屋になる。
是尾の助言、リカの「見えました」、樹里の一歩。これらが繋がった時、劇団の内部に“楽屋状態”が芽生える。久部は旗揚げの激情から一歩引き、演出を「関係の設計」へと昇華させていく。
終盤——二つの決断
久部は演出を修正する決意を固める。初日の“悪ふざけ”に見えた演出を、「事故の余白」として再構築するのだ。役者が迷っても戻れる“帰り道”を設計図に組み込み、舞台を生きた構造に変える。
伴(野間口徹)は一瞬驚くが、すぐに頷く。舞台監督として、彼もまた“治水”の仕事――舞台を溢れさせずに流す役割を理解している。
そしてもう一つの決断は是尾の側。次の稽古に顔を出すとだけ告げて去っていく。彼が客席から舞台へ上がるその一歩は、若き劇団にとって過去と現在を繋ぐ象徴的な行為だった。
第6話は、老俳優の存在が若い演出家を照らす準備の回であり、舞台という“生き物”が再び呼吸を始める夜を描いたエピソードだった。
もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)6話の感想&考察

第6話は、“敗戦をどう価値に変えるか”というテーマを中心に据えた回だった。
舞台上の事故を失敗として切り捨てるのではなく、それを次の設計にどう組み込むか――演出家・久部三成(菅田将暉)が初めて“敗戦の中で考える”表情を見せたことで、物語も作品論も大きく転換した。
是尾の「一定の評価」が導く再設計
日本を代表する舞台俳優・是尾礼三郎(浅野和之)が久部の前に現れ、絶賛でも酷評でもない「一定の評価」を告げる。
この中庸な言葉こそ、久部を次へ進ませる鍵だった。是尾は“事故を否定するな”と助言し、舞台を生き物として扱うよう促す。
事故を排除せず、余白として設計に組み込む発想。久部が抱えていた「限度がある」という自己否定を、是尾の言葉が“限度を定義し直す工程”へ変えた瞬間だった。
三つの視線が交差する夜――恋愛でなく“距離”の物語
打ち上げの場面では、久部を中心に三つの視線が交錯する。
樹里(浜辺美波)は父・江頭論平(坂東彌十郎)の庇護から離れ、初めてWS劇場の輪の中に入る。彼女を見つめるのは脚本家志望の蓬莱(神木隆之介)。その視線には情熱が宿るが、まだ“書くことでしか人を理解できない”彼の未熟さが滲む。倖田リカ(二階堂ふみ)は久部に「見えました」と一言だけ告げる。
この短い台詞が、彼女が舞台上で“踊り手”から“表現者”へ変わったことを示すサインとなる。第6話の恋愛描写は、甘さではなく“距離”の設計として描かれていた。
“楽屋状態”という新しい関係の定義
タイトルにある「楽屋はどこにあるのか」という問いに対し、第6話は暫定的な答えを提示した。
楽屋とは部屋ではなく、“安全にノイズを取り込める関係”のこと。事故や不調、観客の予想外の反応を、互いに受け止めながら修正できる環境がある場所を指す。
是尾の言葉、リカの一言、樹里の半歩――これらすべてが“楽屋状態”への布石だった。舞台を守ることと人を支えることが、同義として描かれた回だった。
旗揚げから再設計へ――演出家の成長譜
第4話のゲネプロ、第5話の初日、そして第6話の再設計。この三話は舞台制作の実時間と呼応している。
久部は“正しさを掲げる人”から“関係を設計する人”へと変わった。伴(野間口徹)もまた、舞台監督として“工務”から“治水”の領域へとシフトする。舞台を流れとして制御する視点が芽生え、チーム全体が一段階成熟したように見える。人を責める物語から、関係を整える物語への転換点だった。
浅野和之の存在が生む“押し引き”の妙
是尾を演じる浅野和之の演技が圧巻だった。声を張らず、語尾に残る余白が久部に思考を促す。
叱咤ではなく、対話の起点を渡すような演技。過去の演劇界の知と現場の若者の衝動をつなぐ存在として、老俳優の“呼吸”が物語の中に見事に息づいていた。久部を壊さずに更新させる、静かな力。ベテランの存在が若手の演出家を育てる構図が美しかった。
音の設計と空気の温度
打ち上げのグラスの音、廊下を行き交う足音、観客席に残るざわめき。
第6話は音の使い方が巧みだった。第5話の“爆音”から第6話の“静寂”へ。音のトーンが物語の温度を導く。舞台を題材にしたドラマにおいて、この「聞こえる距離感」が確かに成立していたのが印象的だ。
総評――“敗戦の価値”を再設計する物語
第6話は、敗北を恥ではなく設計の素材として描いた回だった。久部が自分の失敗を“再構築可能な誤差”として受け入れ、舞台を再起動させる過程は、演劇という営みそのものを象徴している。
次回、是尾が稽古場に立つことで、若さと老い、激情と知恵が同じ平面に並ぶ瞬間が訪れるだろう。
タイトルの問い「楽屋はどこにあるのか」。その答えは、関係を設計し始めたこの瞬間にある。舞台の外も内も、すでに“楽屋”なのだ。
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