第9話「餞(はなむけ)」は、ひとつの密室死から始まり、別れを迎える人間の時間へと静かに焦点を移していく回でした。
女子大生の死は自殺に見えながらも、遺体と現場は「違う答え」を示し続けます。
そして事件の裏で描かれるのは、10年分の年賀状と、最後に残された“送り出すための真実”。ここから先、結末までをネタバレ込みで整理していきます。
ドラマ「臨場 第一章」9話のあらすじ&ネタバレ

ここでは第9話「餞(はなむけ)」の出来事を、できるだけ時系列どおりに整理する。冒頭の“差出人不明の年賀状”という小さな違和感と、青梅のアパートで起きた女子大生殺害事件が、終盤で同じ「森」に行き着く構成だ。なお、ストーリーの核心まで触れるため未視聴の方は注意してほしい。
小松崎刑事部長を悩ませる「差出人不明の年賀状」
物語は、小松崎周一が警視庁刑事部長としての定年退官を一週間後に控えたタイミングから始まる。彼は検視官の倉石義男をわざわざ呼び出し、事件とは無関係に見える“私的な相談”を持ちかける。
相談の中身はこうだ。小松崎のもとには、十年前から毎年欠かさず年賀状が届いていた。差出人の名前はなく、筆跡は女性。内容も派手ではなく、むしろ淡々としているのに、なぜか小松崎はそれを捨てられずに保管してきた。そして今年だけ、その年賀状が届かなかった。たったそれだけのことなのに、小松崎は「気になる」と言う。
さらに厄介なのが、消印が青梅市である点。小松崎は「青梅から来る差出人不明の年賀状」を、職場の誰にも相談していなかったように見える。退官間際の今になって、なぜ倉石にだけ話したのか。小松崎が言外に「これは事件の匂いがする」と感じているようにも映るし、逆に「事件にしてでも、確かめたい」という切迫にも見える。
倉石はその場で結論を出さない。ただ、消印の地名を聞いた瞬間、顔色が変わる。のちに分かる通り、第9話は“刑事部長の送別”という大枠があり、その送別の意味を年賀状が背負っている。タイトルの「餞」は、事件解決だけでなく、小松崎の人生の隙間を埋めるための物語でもある。
青梅のアパートで見つかった女子大生の遺体
その直後、倉石に臨場要請が入る。現場は青梅のアパート。被害者は山原直子(20歳の女子大生)で、室内で腹部に包丁が刺さったまま死亡していた。部屋は施錠されており、外から侵入した形跡が薄い。現場だけ見ると“密室の自殺”に見え、捜査一課がまず自殺線で考えるのも無理はない。
自殺に見えてしまう理由は、施錠だけではない。刺し傷の位置や状況が「着衣を避けている」ように見え、本人が服をめくって刺したと解釈できてしまうからだ。現場に“誰かが暴れた”決定的な痕跡がなければ、初動はどうしても自殺に寄る。だからこそ、倉石の目利きが初動捜査をひっくり返す。
第一発見者は直子の母である山原早苗。早苗が訪ねてきた理由は明確に語られないが、半年ほど前から直子が一人暮らしをしていたため、定期的に様子を見に来ていたとしても不自然ではない。母親が娘の遺体を見つけて取り乱す――この時点で、現場の空気は“家庭の事情”を疑う方向へ傾く。
ただし倉石は、遺体の見え方に乗らない。包丁が刺さっているという一点に引っ張られず、傷の形・深さ・刃幅を冷静に見比べ、違和感を拾い上げる。
倉石が拾った違和感「刃物が二つある」
倉石が見抜いたのは「刺し傷が二種類ある」という事実だった。ひとつは包丁の傷、もうひとつは刃幅の異なる小型ナイフの傷。包丁の刺創は見た目のインパクトが大きく、自殺に見せかけるには十分すぎる。だからこそ、犯人は“本当の凶器”である小型ナイフの存在を隠したかったのだと推測できる。
「小型ナイフ→文化包丁」という順序もポイントになる。犯人は最初の刺創が残ることを恐れ、より目立つ包丁で上書きしてしまえば捜査が自殺に流れると踏んだ。実際、施錠と包丁のビジュアルだけで捜査は一瞬そちらに傾いた。だが倉石は“上書き”の痕跡を見逃さない。
さらに現場には、争った痕跡を思わせる散乱がある。ゴミ箱が倒され、室内が荒れている。その荒れ方が「物盗り」よりも「慌てた人間の動き」に近い。そして近くのクローゼット(押入れ)の取っ手に血痕がある。倉石はここから「返り血を浴びた犯人が、部屋の中で服を探した」と踏む。
この推理が決定的になるのが、次の疑問だ。クローゼットの取っ手に血がつくほど動いた犯人が、玄関のドアノブに血を残していないのはなぜか。玄関から出たなら、どんなに慎重でもノブに触れずに外へ出るのは難しい。つまり、犯人は玄関から出ていない。この一文が、第9話の密室の答えに直結する。
施錠された部屋が生む誤解 疑いは「身内」へ
とはいえ、現場が施錠されていた以上、捜査は“被害者に近い人物”へ寄っていく。捜査一課の立原真澄が疑いの矛先を向けるのが、早苗の再婚相手で義理の父にあたる山原勘一だ。勘一はエステサロン店長で、早苗と再婚して家庭に入ってきた人物。直子にとっては“血の繋がりがない”上に、年齢も近く、家庭内の距離感が危うい。
直子が家を出た理由が、この勘一とのトラブルにあったことも分かってくる。直子の友人の証言では、勘一が直子が寝ている間に勝手に部屋へ入ってきたことがあり、直子はそれを強く嫌がったという。実家を出て一人暮らしを選んだのも、その延長線上だと見える。
“施錠された部屋”“過去に部屋へ侵入した義父”“被害者の女性”――状況だけを並べると勘一が浮上するのは自然だ。立原たちは勘一の行動やアリバイを詰めようとするが、倉石は「鍵がかかっていた」事実が、必ずしも“身内しか入れない”を意味しないと見ている。鍵は玄関だけに存在するわけではなく、建物の構造そのものが“別の鍵穴”になることがあるからだ。
しかも立原側には「小松崎の退官まで一週間」というタイムリミットがある。未解決事件を残すのは、刑事部長の“餞”として最悪だからだ。焦りが推理の視野を狭める危うさも、ここでは丁寧に描かれる。
老人施設から届く連絡 「森でナイフを拾った」
捜査が家族関係に寄りかけたところで、事件は外側から新しいピースを投げ込んでくる。アパート近くの老人施設から電話が入り、入居者の安田明代が森でナイフを拾ったというのだ。しかも明代は「男が捨てるのを見た」と話す。倉石が“凶器は二つ”と見抜いた直後に、この情報が刺さってくる。捜査本部が一気にざわつくのも当然だ。
だが明代の証言は万全ではない。明代は認知症を患っており、時間感覚が曖昧で、話が飛ぶ。「いつ見たのか」「いつ拾ったのか」を掘り下げても定まらない。それでも、目の前の事実(ナイフ)だけは確かに存在している。捜査側は「確かな物証」と「不確かな証言」を切り分けつつ、どこまで信用できるかを測らないといけなくなる。
明代に似顔絵を描かせる場面も象徴的だ。普通なら“ナイフを捨てた男”の顔を描くはずなのに、明代が描いたのは少年。しかも、明代はその少年を描きながら、どこか安堵したように笑う。捜査に役立つかどうか以前に、「明代の記憶の中心にいるのは少年なのだ」と示してくる。
施設の職員たちは「明代は森へ行きたがる」「森へ行くと落ち着く」と話す。徘徊癖とも取れるが、倉石はそこに“目的”を感じ取る。後半、年賀状の件と結びつく布石だ。
明代の溺死 事件の連鎖が疑われる
ところが、凶器の線が見えかけた直後に最悪の知らせが入る。明代が施設近くの川で溺死体として発見されたのだ。直子事件の凶器に関わる人物が死ぬ。この展開は、捜査陣に“口封じ”を連想させるには十分で、二件目の殺人事件の可能性が急浮上する。
一方で、溺死は検視が難しい。倉石でさえ、この時点では「殺された」と断言できない。認知症の高齢者が、ふとした拍子に足を滑らせる事故は起こり得る。だが“起こり得る”という曖昧さが、捜査の不安を増幅させる。もし事故なら、直子事件と直接関係はない。もし他殺なら、犯人は証拠の存在を恐れて動いたことになる。どちらに転んでも、事件の見え方が大きく変わってしまう。
明代が亡くなったことで、直子事件の凶器(小型ナイフ)に関する“目撃”は、永遠に確定できなくなる。捜査は物証と状況証拠に寄らざるを得なくなり、焦りはさらに強くなる。
大家・中村と森 明代が「誰と」歩いていたのか
捜査が次に確認するのは、明代が最後にどこへ向かっていたかだ。目撃情報から、明代が森へ入る際、アパートの大家である中村俊郎と一緒だったことが分かる。中村は「森の中で別れた」と説明し、明代の死には関わっていないと主張する。
ここで中村は“疑われる側”であると同時に、“繋ぐ側”でもある。明代が森へ行く理由を知っているかもしれない人物であり、同時に、事件当日のアパート内トラブルを知る人物でもあるからだ。中村の証言をたどることで、捜査は直子の部屋だけではなく、アパート全体の時間の流れを再構成できるようになる。
事件当日、隣室では夫婦ゲンカ 警察は“すぐ隣”にいた
中村に当日のことを聞くと、直子の隣室で夫婦ゲンカがあり、警察が呼ばれていたことが判明する。隣室の住人は藤島透と妻の藤島美智子。立原たちは、その仲裁で隣室に入っていたという。
ここが第9話の肝になる。“殺人事件の現場のすぐ隣に、警察がいた”。にもかかわらず、直子の部屋の異変に気づけなかった。警察が隣にいても成立してしまう密室という状況が、捜査の前提を揺さぶる。
さらに「夫婦ゲンカの後、美智子だけが部屋を出ていた」という情報が効いてくる。透が一人になった時間がある。外から侵入した形跡がない直子の部屋に、玄関を使わずに入り込める人間がいるとしたら、近い部屋の住人ほど現実的になる。立原が“隣室”に違和感を覚え始めるのは、この流れの必然だ。
いつもなら倉石のやり方に反発しがちな立原だが、この回では「隣の部屋が気になる」と、珍しく自分から倉石に状況を説明しに行く。義父の線で固まりかけた捜査を、建物の構造と現場の矛盾に引き戻すためだ。立原が“勘”で感じた違和感を、倉石が“物証の読み”で裏づけていく流れが、以降の急展開につながる。
「ドアノブに血がない」から始まる侵入経路の推理
倉石が小坂留美や一ノ瀬和之に話すのは、現場の矛盾だ。クローゼットの取っ手には血痕があるのに、ドアノブにはない。玄関から出たなら矛盾する。ここで初めて“密室”の正体が、トリックではなく建物の構造だと見えてくる。
捜査陣は押入れの天井部分を確認し、古い建物ゆえに板が外れやすい構造になっていることを突き止める。天井裏は隣室と繋がり、そこを通れば、玄関を使わずに行き来できてしまう。密室は“作った”のではなく“できてしまった”。犯人が選んだ経路が、そのまま密室の条件を満たしてしまったのだ。
この構造を知っているのは、長く住んでいる住人か、管理者、あるいは日常的に家の中をいじるタイプの人間。透はまさに“隣室の住人”であり、しかも当日、一人になる時間があった。論理が揃い始める。
消えたバスローブ “返り血”を隠すための即席の衣装
立原が倉石に話を持ち込む決め手のひとつが、直子の友人の記憶だ。事件後、直子の部屋からバスローブがなくなっていることを思い出す。誰かが持ち去ったのだとしたら目的は限られる。返り血を浴びた犯人が、外へ出ずに隣室へ戻るため、羽織って血を隠した――そう考えるのが筋だ。
バスローブは外で目立つ。だが“外へ出ない”なら話が変わる。天井裏は狭く、ほこりも多い。そこを通るなら、血だけでなく服につく汚れも隠したくなる。犯人がバスローブを選んだのは、直子の部屋にあって、すぐ着られて、捨てやすいからだ。ここまで整理すると、バスローブの不在は「隣室経由の逃走」を裏づけるピースとして効いてくる。
「ツメ」の付着 透を現場に結びつける最後の糸
それでも、推理だけで逮捕はできない。透が天井裏を通った事実、直子の部屋にいた事実を、何かで“固定”する必要がある。そこでドラマが採用する決め手が「ツメ」だ。
直子が切って捨てていた爪(爪片)が、犯人の足の裏に付着していた――という形で、透と現場が結びつく。侵入時に床に落ちていた爪を踏み、天井裏を通って隣室へ戻ったことで、爪片を持ち帰ってしまった。捜査側はこの“持ち帰り”を手がかりに、透の足元(靴や足裏)まで確認し、逃げ道を塞いでいく。
これで透の逃げ道は塞がる。夫婦ゲンカで妻が部屋を出ていたこと、事件当日に警察が隣室へ呼ばれていたこと、押入れの天井板が外れる構造、消えたバスローブ、そして足裏の爪片。点が線になり、線が輪になって、透一人を囲い込む。
事件の再現 透が「やったこと」の順番
捜査が透へ絞られると、直子事件は“密室の難事件”から、一気に「近所の部屋から侵入された事件」として輪郭を持つ。透は隣室の押入れから天井板を外し、天井裏を移動して直子の部屋の押入れへ降りる。玄関を通っていないから、外から見れば施錠はそのまま残る。最初から“密室トリック”を狙ったというより、逃げやすいルートを選んだ結果、密室の条件がそろってしまった形だ。
犯行後、透は小型ナイフを森へ捨てるが、ここで目撃者になったのが明代だった。明代はナイフを拾い、施設に持ち帰る。だが認知症のため「いつ見たか」「いつ拾ったか」を説明できない。証言としては弱いのに、物証(ナイフ)が強い。第9話の捜査が難航した理由は、まさにこのズレにある。
透の自白 「挨拶に来た時から目をつけていた」
追い詰められた透は、自分の欲望を優先した動機と犯行手順を語る。直子が引っ越しの挨拶に来た時から目をつけていた。欲望を抑えられず、妻とケンカして美智子が部屋を出て行った隙に、天井裏から直子の部屋へ侵入した。
小型ナイフを用意していたのは、最初から脅すつもりだったからだろう。だが直子は抵抗し、揉み合いになり、透は刺してしまう。ここで透が選んだのが“自殺偽装”だった。部屋にあった文化包丁を使い、腹部に刺し直して、最初の刺創(小型ナイフ)を隠す。現場が密室に見えたのは、透が玄関を使わずに戻ったからで、密室そのものを作ろうとしたわけではない。
凶器の小型ナイフは森へ捨てる。返り血はバスローブで隠す。直子が“義父の視線”から逃げて一人暮らしを始めたのに、転居先で“隣人の視線”に殺されたという構図が、事件の構図をはっきりさせる。
こうして直子事件は解決する。立原たちは、小松崎の退官を未解決で汚さずに済む。だが第9話は、ここからもう一段、別の核心へ入っていく。
明代の遺品が示した「年賀状の差出人」
直子事件が一段落した頃、明代の遺品整理の中で決定的なものが見つかる。小松崎に関する新聞記事の切り抜き、スクラップ、そして親子らしき二人が写った写真。これで「十年続いた差出人不明の年賀状の送り主は明代だった」可能性が一気に濃くなる。
小松崎は養子として育った過去があり、その事実を本人も知っていた。年賀状の筆跡や差出地から、送り主が実母なのではないか――小松崎は半ば気づいていたからこそ、今年だけ途切れたことを“ただの郵便事故”として処理できなかった。年賀状が届かない=母の身に何かあった、という直感に近い心配が、小松崎を動かしていたのだ。
そして、その直感は当たっていた。明代は認知症のため、今年は年賀状を出せなくなっていた。十年分の年賀状が「毎年欠かさず」届いていたのに、今年だけ途切れた理由が、ここで説明される。
十年という長さは、数字にすると簡単だが、年賀状に書き続けるとなると別物だ。差出人の名を伏せたままでも毎年送り、消印だけが同じ場所を示す。小松崎がそれを捨てずに保管してきたのも、「いつか答え合わせが必要になる」とどこかで感じていたからだろう。届かない一枚は、その答え合わせの期限が“退官”より先に来てしまったことを告げていた。
明代の死は事故か 倉石が辿る“森の理由”
残るのは、明代の溺死の意味だ。もし明代が口封じで殺されたのなら、年賀状の件は小松崎の人生を揺らすだけでなく、捜査一課としても重大事件になる。逆に事故なら、明代は“誰にも知られず”に息子を想い続け、そして誰にも看取られず亡くなったことになる。どちらも重い。だからこそ倉石は「明代がなぜ森に行くのか」を徹底して掘る。
倉石が突き止めるのが、森で鳴く鳥「ジュウイチ」だ。明代にとってその鳴き声は「ジュウイチ」ではなく、息子の名前である「周一」に聞こえていた。森に行けば、誰に咎められることもなく、息子の名前を呼べる(呼ばれている気になれる)。明代にとって森は、記憶が薄れていく現実の中で、唯一しっかり触れられる場所だった。
倉石はさらに、その鳥が托卵の習性を持つことにも触れる。自分の子を他の巣に託すという性質が、明代が小松崎を養子に出した人生と重なる。明代が息子の人生に直接関われなかったからこそ、せめて“名”だけでも呼び続けられる森に惹かれた――倉石はそう説明する。
この説明に立てば、明代の死が「自殺」である可能性は薄い。倉石が小松崎に告げるのは、事故死という結論だ。「自慢の息子を持った親が自殺をするはずがない」という倉石の言葉は、ここで小松崎を少しだけ救う。
小松崎が思い出す“味” カレーが呼び戻す幼い記憶
小松崎は施設を訪れ、入居者たちが食べているカレーを目にする。そこで、幼い頃の記憶が一気に蘇る。自分の名前を呼ぶ声、母が作ってくれたカレーの匂いと味。小松崎にとって、明代は「記憶にない母」だったはずなのに、味覚のスイッチだけは残っていた。
この場面は、年賀状の違和感に“肉体の記憶”という裏付けを与える。十年分の年賀状は、言葉としては淡い。しかし、カレーは一口で身体を揺らす。小松崎が普段からカレーを好んでいたことも、ここで意味を持ち直す。
退官の日 事件を終え、送り出される
そして退官の日が来る。小松崎はいつも通り食堂でカレーを食べ、食べ終えたあとに廊下へ出ると、職員たちが整列して敬礼し、拍手で送り出す。刑事部長としての最終日に、未解決事件を残さず、さらに“差出人不明の年賀状”の謎にも区切りがついた。
第9話の「餞」は、形式上は“退官の餞”だが、実質は「遅れて届いた母の想い」でもある。今年届かなかった年賀状は、関係が途切れた証ではなく、明代の病が進んだ証だった。小松崎が最後に辿り着いたのは、犯人の名前ではなく、母のいた場所と、母が聞きたかった声だ。事件を解決したうえで、人生の空白が少しだけ埋まる――第9話はそんな終わり方をする。
事件の捜査線と、年賀状の謎。どちらも最後は青梅の森へ収束し、そこで「犯人の捨てた物」と「母が聞きたかった声」が交差する。肩書きの終わりに、もう一つの“出自”の物語が静かに置かれる――第9話は、その二重構造がタイトルの「餞」を成立させる。
ドラマ「臨場 第一章」9話の伏線

第9話「餞(はなむけ)」は、ひとつの殺人事件を追いながら、刑事部長・小松崎周一の“退任”と“出自”までを同時に炙り出す回です。事件の筋だけを追っても面白いけれど、細部に撒かれた小さな違和感が、後半でまとめて回収される作りになっていました。
ここでは「後から効いてくる小さな仕掛け=伏線」に絞って、どこに何が埋まっていたのかを、できるだけロジカルに拾っていきます。
冒頭の「届かなかった年賀状」が、物語のゴールを先に示している
いきなり小松崎が倉石を呼び出し、差出人不明の年賀状の話をする。10年間欠かさず届いていたのに、今年だけ来なかった――この時点で、視聴者は“事件の前に、もう一つの事件が起きている”と気づかされます。しかも消印は青梅。倉石が「去年の青梅の変死は全部男性」と切り返すやり取りは、年賀状の送り主が“女”であることを強調していて、後の真相(送り主の正体)への案内板になっていました。
この年賀状は「手紙」じゃなく「年に一度の儀式」なのがミソ。内容がどうこうより、“来るはずのものが来ない”こと自体が異常事態で、受け取る側の心を乱す。しかも小松崎は退任まで1週間。時間制限と年賀状の不在がセットで提示されることで、「この回のゴールは退任の日に何かが決着する」と、序盤から方向が決まってしまうんです。
さらに言うと、年賀状の伏線は“犯人当て”とは別レイヤーで効いています。事件の捜査を進めれば進めるほど、青梅という土地に縁のある人物が浮かび上がり、年賀状の送り主もまた青梅にいる。二本の謎が同じ場所へ収束していく設計が、この回を「偶然の連続」に見せず、「必然の連鎖」に見せています。
「密室自殺」に見える配置が、逆に“出口”を語っている
青梅のアパートで、女子大生・山原直子が腹に包丁を刺したまま発見される。部屋は施錠され、包丁は衣服を避けて刺さっている――一見すると自殺の絵面。けれど倉石は、刺し傷が刃幅の違う2か所であることにいち早く気づき、殺人だと断定します。ここで“二つの刃物”という違和感が、最短ルートの伏線。自殺のためにわざわざ刃を替える理由がないからです。
事件の伏線は、この「刺し傷」だけじゃありません。散乱するゴミ箱、クローゼットの取っ手に付いた血痕。これは“犯人が返り血を浴びた”ことと、“その場で服を探した”ことを匂わせる小道具です。現場が荒れているのは、単に抵抗があったからではなく、犯人の「隠蔽行動」が混ざっている。だから倉石の見立ては「殺し」になる。
そして決定打が、血痕の「ある場所/ない場所」。クローゼットの取っ手に血があるのに、ドアノブに血がない――この非対称は、犯人がドアから出入りしていないことを示す伏線です。後半で“押し入れの天井が外れ、隣へ行き来できる古い構造”が出てきた瞬間、血痕の位置が一気に意味を持ち始める。伏線として見事なのは、派手なトリックより先に、血の位置だけで「出口」が語られていた点です。
「一番怪しい義父」がミスリードとして成立する理由
捜査がまず疑うのは、母・早苗の再婚相手(義父)・勘一。直子は義父とのトラブルが原因で家を飛び出したらしい、と語られるので、視聴者も自然に“動機がある男”としてロックオンしやすい。ここは狙って作られたミスリードで、真犯人を隣人にするための視線誘導です。
ただ、このミスリードは「外すため」だけに置かれていない。直子が家を出た理由が「身近な男の視線」だったとすれば、引っ越し先で襲ってきたのもまた「身近な男」。場所を変えても、同じ種類の危険が追いかけてくる。義父への疑いは、直子の人生が“そういう怖さ”に絡め取られていたことを説明する伏線でもあります。
夫婦喧嘩の情報が、真犯人に「時間」を与える
もう一つ、地味に効いているのが「事件当日の隣室の夫婦喧嘩」。立原が聞き込みで、隣人夫婦の喧嘩の仲裁に入っていた、という情報が出てきます。最初はただの近所トラブルですが、後から振り返ると、これは犯人に“妻が家を空ける時間”を与える伏線になっている。妻がいない=不在アリバイの空白=侵入のチャンス。偶然ではなく、犯行を成立させる条件が先に提示されていたわけです。
認知症の明代が描く“少年の似顔絵”は、単なるズレじゃない
凶器のナイフを見つけ、「捨てた男を見た」と言う唯一の目撃者が、老人施設に入居する認知症の安田明代。ところが似顔絵を描かせると“少年”になる。この時点では「認知症だから証言が曖昧」という扱いですが、後で思い返すと、あれは“彼女の記憶の中心”が少年期の小松崎(周一)に固定されていた伏線でした。
ポイントは、少年の似顔絵が「証言の信用度を下げるノイズ」であると同時に、「明代の人生で一番鮮明に残っている像」を示していたこと。視聴者は前者として受け取ってしまうから、後者の意味が隠れる。伏線の基本どおり“誤解させておいて、後で意味を反転させる”仕掛けでした。
溺死は「口封じ」に見えるように配置され、最後に“餞”へ反転する
明代はナイフを拾い、犯人像を語った直後に川で溺死体となって見つかります。タイミングが良すぎて、視聴者はまず「口封じ」を疑う。実際、作劇上もそう疑わせる配置です。
ただ、倉石は溺死についてはいつものように断言できない。溺死の判定が難しいという“検視官の限界”がここで描かれ、最後に倉石が小松崎へ「明代さんは事故だ」と告げることで、疑いは「事件」から「餞」へ反転します。断言できないのに、あえて“結論”を渡す。ここにこの回の人間ドラマの核があり、その核へ視聴者を運ぶために、溺死は伏線として置かれていました。
カレーと「ジュウイチ」の声――長期伏線の回収
この回の伏線でいちばん刺さるのは、事件のトリックじゃなく“小松崎のクセ”の方。小松崎がいつも食べているカレーが、実は実母との記憶に繋がっていたことが明かされます。視聴中はただの日常描写に見えるのに、終盤で意味が変わる。こういう伏線回収は強い。
さらに森で鳴く「ジュウイチ」の声が、「周一」と呼ばれているようで明代が癒やされていた――この設定が、小松崎の名前と母の行動を一本に束ねます。森へ通う理由、年賀状を出し続けた理由、そして今年だけ出せなかった理由。全部が一本の線になる。
そして個人的にゾクッとしたのが、「ジュウイチ」という鳥の性質まで含めると、さらにもう一段深い比喩が成立すること。ジュウイチはカッコウ科で、托卵(ほかの鳥の巣に卵を産む)をする鳥として知られています。
“自分の子を自分で育てられなかった母”と、“血の繋がらない親に育てられた息子”。ドラマ内でそこまで説明はされないけれど、鳥の選択そのものが、親子のすれ違いと「育てる」という行為の重さを、静かに補強しているように見えました。
ドラマ「臨場 第一章」9話の感想&考察

第9話は、事件解決の爽快感よりも、終わったあとに残る“苦み”が強い回でした。女子大生殺害の理不尽さと、小松崎の退任、さらに実母の死までが同じ回に乗っていて、感情の置き場所が何度も揺さぶられる。だからこそ、タイトルの「餞」が刺さる。
以下は、視聴後に頭の中で引っかかったポイントを中心に、感想と考察をまとめます。
直子の事件は「逃げた先にある地獄」だった
直子は義父とのトラブルをきっかけに家を出て、一人暮らしを始めたとされます。つまり彼女は“危険を避けるために環境を変えた”。でも、引っ越し先で待っていたのは、隣人・藤島による侵入と殺害でした。越してきた挨拶の時点で目をつけられた、という動機が本当に胸糞で、逃げた意味がひっくり返される。
ここで怖いのは、犯人像が「遠い犯罪者」じゃないこと。隣に住む、ごく普通に見える夫婦の夫。その“生活圏の中の暴力”を、押し入れの天井という物理的な近さで見せてくる。安全だと思っていた壁一枚が、ただの薄い板だった――あの感覚が、この回の後味を決定づけていました。
あと、ミスリードとして義父が強く疑われる流れも、視聴者心理としては自然でした。疑われる男が“それっぽい”ほど、隣の男が透明化する。誰もが「身内のトラブル」へ目を向けた瞬間に、「隣室」が盲点になる。ドラマとしての面白さと、現実の怖さが同じ方向を向いていました。
倉石のロジックは、派手な推理より「血の位置」の地味さで勝つ
この回の倉石は、いつも以上に地味に強い。刃幅の違い、クローゼットの血痕、ドアノブに血がないという“触れた/触れてない”の差。要するに、現場が語る生活動線から犯人の出入口を割り出していく。事件の構造はエグいのに、解決の鍵は驚くほど生活臭い。そこが『臨場』らしい。
個人的に好きなのは、「返り血を浴びたホシが服を物色した」という見立て。これ、推理というより“人間の行動”の読みなんですよね。必死のとき人は何をするか。怖くて、とっさに隠す。そういう当たり前が、死体と現場の中に残る。倉石はそこを拾うのが上手い。
そしてもう一歩踏み込むと、倉石の強さは「決めつけないための決めつけ」を持っている点にあると思います。刺し傷の刃幅、血痕の位置――“物”が語ることは断定する。でも溺死のように物証が揃わないところでは、簡単に断言しない。この線引きが、キャラの説得力を支えています。
立原が「倉石に相談する」回だったのも、地味に熱い
事件当日の聞き込みから、隣人夫婦の喧嘩の情報が出て、立原は“隣の住人が引っかかる”と珍しく倉石に話を持ち込みます。ここ、シリーズを追っている身としてはちょっと嬉しい瞬間でした。立原は基本的に「捜査一課の論理」で動く男だけど、今回は小松崎の退任がかかっている分、意地でも未解決にしたくない。その焦りが、倉石の現場目線と噛み合う。
倉石と立原の関係って、勝ち負けの張り合いじゃなく「同じものを違う角度から見ている」感じがある。だから、この回みたいに“同じ方向へ走る理由”が明確になると、二人の会話がいつもより前に進むんですよね。事件のカギが「隣室」だったこと以上に、この関係性の前進が、この回の見応えでした。
明代の死因を“事故”とする倉石――科学と感情の境界線
一方で、明代の溺死は倉石でも断言できない。溺死の判定の難しさをきちんと描いた上で、倉石は小松崎に「事故だ」と告げます。ここがこの回の一番のポイントだと思っています。
倉石が言う「自慢の息子を持った母親が自殺したケースは過去に一度もありません」という台詞、あれは医学じゃなく“倉石の経験則”です。科学的に証明できない領域を、残された人が前へ進むための言葉で埋めている。検視官としてはグレー。でも人間としては、あれ以上の餞はない。
ただ、ここは考察の余地もある。もし本当に「事故」だとしても、倉石が渡したのは“事実”というより“意味”なんです。明代は、森で「ジュウイチ」の声に包まれるのが好きだった。小松崎の名「周一」を呼んでいるように聞こえて癒やされていた――この説明は、死因の断定よりも“小松崎と母を繋げる”ためのものに見える。倉石は、死者の真相だけじゃなく、死者の感情も拾おうとしている。
年賀状が象徴する「踏み込めなかった距離」
10年間届いていた差出人不明の年賀状。これって、情報としては薄いのに、感情としてはやたら重いですよね。言葉は少ない、署名もない、でも毎年届く。つまり送り主は「あなたを忘れていない」とだけ伝え続けていた。小松崎がそれを“気にしていた”という事実だけで、彼の中にも返事を出せない事情(養子としての立場、今の家族への遠慮、あるいは自分でも整理できない感情)があったことが透けます。
終盤、明代の遺品に小松崎の記事のスクラップや親子写真が出てきて、年賀状の送り主が彼の実母だったと繋がる。
ここで刺さるのは「会いに行けばよかった」じゃなく、「会いに来てほしかった」とも簡単に言えない距離感です。母は母で、息子の人生を壊したくないから名乗れない。息子は息子で、今さら“母”と呼べるのか迷う。だから、年賀状という“一歩手前の連絡”だけが10年続いた。あの無言の往復は、事件以上に人間くさい伏線でした。
カレーの伏線回収が、退任シーンをただの儀式にしなかった
小松崎といえばカレー、っていう日常描写が積み重なっていたからこそ、終盤の食堂シーンが効きました。老人施設でカレーを見て記憶が引っかかる→幼いころ母に作ってもらった味を思い出す→最後の日もカレーを食べ、敬礼と拍手で送り出される。退任が“役職の終わり”じゃなく、“人生の整理”になっている。
ベタと言えばベタなんだけど、ベタの使い方が上手い。ここまで積み上げた“カレー好き”を、母の記憶へ回収してしまうから、拍手も花束もただのセレモニーじゃ終わらない。小松崎にとっての餞は、職場の送別会だけじゃなく、「母に会えなかった人生」そのものに区切りを付ける儀式でもある。
考察:『ジュウイチ』は、物語の裏テーマを象徴しているかもしれない
ここからは少し踏み込み。明代が通った森で鳴く「ジュウイチ」は、カッコウ科の鳥で托卵をすることで知られています。
托卵って、簡単に言えば「自分の子を他の巣で育てさせる」行為です。もちろんドラマは動物行動学の話をしているわけじゃない。でも、“実母が育てられなかった息子”と“血の繋がらない親に育てられた息子”という関係に、托卵のイメージが重なって見えるんですよね。
明代が「周一」と聞こえる声に癒やされるためだけに森へ通った、という設定は、切ないと同時に、どこか救いでもある。直接は呼べなかった名前を、鳥に代弁させている。人間の言葉が届かないところで、自然の声だけが届く。そう考えると、倉石が小松崎に渡した「事故」という言葉も、事実の断定ではなく“救いの置き場所”を作るための言葉だったのかもしれません。
第9話は、最終話へ向けた「家族」の角度調整
第一章の終盤は、家族の話が濃くなっていきます。第9話で描かれたのは、小松崎にとっての家族=育ての親と、記憶の外にいた実母。その“二重の親子関係”を、年賀状という形式でしか繋げなかった距離感です。
この回を見終えると、「家族って結局、血なのか時間なのか」みたいな問いが残るんですよ。小松崎は3歳で養子に出され、記憶も薄い。それでも、味(カレー)と音(ジュウイチ)で“母”へ辿り着いてしまう。次の最終話で倉石自身の家族の喪失へ踏み込んでいくことを考えると、第9話は視聴者の心を“家族の死”へ慣らす役割も担っていた気がします。重さの方向を整える回。だからこそ、事件よりも「餞」の余韻が強く残りました。
最後にもう一つだけ。第9話は、事件の謎解きとしては“隣室侵入”という一本筋で片づくのに、感情の方は全然片づかない。直子の理不尽、小松崎の後悔、倉石の言葉の選び方――この3つが噛み合って、「解決=救済ではない」と突き付けてくる。だからこそ、次の最終話に入る前に、一度深呼吸したくなる回でした。
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